23 がんという病気(3)
病人ではない人生を生きる
がんは病気ではありますが、病人になる必要はないのです。と前回(2)で書きましたが、これは大事なことです。
がんになった人に対して、
「意外とお元気そうですね」「お元気そうで良かった」と、まわりの方は本人を気遣っての言葉なのでしょうが、がん本人にとっては、全くありがたくない言葉です。
今や、がんは死を迎えるまで、元気で生着られる病気です。
病気ではあっても、ずっと病人でいるのではありません。
これが他の病気(たとえば慢性疾患など)と違うところです。
私は自分がステージ4の乳がんであることを忘れてしまうことがよくあります。
がんになられた方たちも、常に「私はがんだ!!」と思っているわけではないと思います。
そんな方に、「以外とお元気で良かった」なんて言葉をかけることが、本人にがんであることを思い出させる以上に、病人らしく生活しないといけないのか?と思わせ、本人を傷つけているのです。
最初は恐る恐る私と接していた人たちも、今では私ががんであることを忘れてくれています。それが今の私には、一番ありがたいことです。
病気になったら・・・
頭痛や腹痛など痛みがあったり、発熱したりすると、そのままでは人間は通常の生活はできないので、痛み止めや、解熱剤を服用して、症状を軽減させます。
では、なぜ痛みや、発熱が起きたのでしょうか?
これは、身体がこのままではダメですよ、少し休みなさい!という警告を発しているのです。身体の言う通りにすることが自然です。
痛み止めや解熱剤は、やむを得ない時は使ってもいいのですが、本来は、すぐに休養を取って自分の免疫力で元気を取り戻すことが大切です。薬の力を借りることは悪いことではありませんが、あくまでも治すのは自分自身です。
最近多いヘルペス(帯状疱疹)になる方が多くなっているように感じています。
ヘルペスは水疱(ムンプス)ウィルスによる病気です。
一度感染すると一生涯その宿主に潜んでしまい、抵抗力が低下した時に再発するという性格があります。なかなか早期に診断するのが難しいのですが、抗ウィルス薬を早目に服用することで治ります。
一生涯その宿主に潜んでいるので、免疫力が落ちれば何度でも再発します。これも前述したように、身体が警告しているのです。
免疫力が落ちているので、休養しなさいよ!と。
いくら薬を服用しても、治すのは自分自身の免疫力です。
休養の仕方にはいろいろあると思います。
睡眠・栄養を取る・リフレッシュするために行動する(スポーツや旅行)等。
私のお勧めは、まず睡眠です。
寝ることで、アタマも身体を同時に休ませることができます。
もし寝られなかったら、薬の力を借りてでも寝てほしいと思っています。良く寝れば、アタマも身体もすっきりするはずです。
栄養を取る、ですが、現代は栄養失調で倒れる人はめったにいませんので、1日くらい食べなくても大丈夫!!特に胃腸に症状が出ている人は、むしろ食事を取らないことで、胃腸を休ませることができます。
ただし水分は充分に取らなくてはいけません。
このように、病気の大小はあれ、病気になるということは、今までの生活を見直しなさい!!と警告されているのです。
うつ病の時にもお話したように、病気になるには原因が必ずあります。
この原因をしっかり分析して解決しない限りは、また病気になると思います。
がんも同じです。どこでどう、遺伝子の複製間違いが起きたのかはわかりませんが、遺伝性のがん【全体の約5~10%】を除いては、それまでの生き方や、生活様式に原因があると思った方がよいと思います。
病気になったのに、今まで通り、何も変えない生活は危険です。
むしろ、病気が自分に今までの間違った生き方を気付かせてくれたと、感謝しなくてはいけないと思います。
では、今日も1日前向きに!!
22 東京というところ(5)
昭和の三種の神器と言ったら、「テレビ」「冷蔵庫」「洗濯機」ですが、ここでは最後の洗濯機について話しましょう。
洗濯機
洗濯とは、布をこすったり叩いたりすることで布から汚れを浮かせ(分離し)る、または布地に石鹸を浸透させ汚れを落としやすくして、きれいにすることです。
昔は川や池や泉などで、もっぱら人の手や足で行っていたもので、かなり手間のかかる作業で重労働でした。
洗濯機は、そうした重労働を軽減する目的で開発され、家事労働の軽減に貢献してきたのです。
ヨーロッパでペストが流行した時は、殺菌の目的でかまどで熱湯の中に衣服を入れてかき回す、という危険な重労働を軽減するために電気で回す、電気洗濯機が登場することになりました。
日本では昭和3年に輸入販売を開始、1930年には現在の東芝にあたる芝浦製作所から攪拌式ソーラーA型という名前で販売されました。価格は370円。
初任給が60~70円の時代ですからかなり高価ですね。その後、1953年に三洋電機から現在の洗濯機の原点とも言える噴流式洗濯機が低価格で発売され、一気に普及したようです。
1954年には脱水機付きの洗濯機が登場します。とはいっても電気の力で脱水をするのではなく2本のローラーに洗濯物を挟み込んでハンドルを回すことで脱水を行うものでした
我が家にはこのハンドル式脱水機付き洗濯機がありました。
脱水は二つのローラー(各ローラーにはゴムが付いている)の間に洗濯した衣類を入れて、ハンドルでこのローラーを回すと脱水され、ぺっちゃんこになった衣類が出てくるというものです。
私は小さかったので、よく兄たちに腕を入れられ遊ばれた記憶があります。
それほど緩いローラーでした。
ゴムが硬くなり、脱水能力が落ちるという欠点がありましたが、ゴムを張り換えた記憶はないので、日々の入ったゴムで脱水していたのではないかと思います。
次に登場したのが、1960年に洗濯と脱水が一体化した2槽式洗濯機です。
2槽式の洗濯機は洗濯物を移す手間は掛かりますが洗濯と脱水が同時進行できて今でも使われています。
脱水漕に均等に衣類を入れて回す必要があり、偏っていると、洗濯機が揺れて故障の原因になりました。
1990年代に入って2槽式と全自動洗濯機は立場が逆転し、全自動洗濯機の時代へと突入しました。
女性の服装
大正時代、モボ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)が流行り、洋装する人も多くなってはいたのですが、私の母たち(大正生まれ)は、一般には着物が主流でした。
戦時中は着物にもんぺ(元来は作業用に用いられたハカマの一種)が国民服として奨励されましたが、戦後はアメリカの影響下でアメリカナイズが始まり、和服は古い物というイメージが強くなり、若い世代は敬遠するようになって、洋服を着る人が増えました。
東京オリンピックまでは主婦は着物を着るのが一般的でした。その後の着物離れによって、着物は晴れの日(お正月や結婚式・卒業式・入学式など)に着るものとなり、その結果呉服屋さんが高価な着物を売るようになった事が、若い人の着物離れに拍車をかけたの出はないかと思います。
着物は体系や身長にとらわれず、その時代の誰も(今のように背が高く、手足の長い女性はあまりいなかった)が着られること、普段着は木綿のものでしたが、色とりどりの正絹の着物や大島、紬などと帯を組み合わせて外出を楽しむことができ、代々受け継がれる、日本古来の素晴らしい伝統衣装だと思いますので、若い方々にも今後受け継がれることを期待しております。
着物には袷(あわせ)と言って裏地のあるものと、単衣(ひとえ)と言って裏地のない物があります。
袷の着物は本来は10月~翌年の5月の、気温が~22℃くらいの時期に冬物の帯を締めて着られることが多いです。
基本的には長襦袢(ながじゅばん)は袷仕立てのものを着用します。
単衣は6月や9月のような季節の変わり目に切るのが一般的です。気温は22℃~28℃くらいので、帯は気温が高くなっている時期なら夏もの、気温が低ければ冬物と使い分けます。
真夏の暑い時期には、絹の絽(ろ)や紗(しゃ)を着ますが、生地が薄いので、中に長襦袢などを着て着物の形を整えたり、透けないように着物の柄や色を工夫します。
また、絽や紗、麻(ごわつくので帯に使用することが多い)などの透け感の強い、薄めの夏帯を合わせることで、涼しさを演出します。
私も今では着物で出かけることも少なくなりましたが、着物を着て帯を締めると、背筋がシャキッとするので、大好きです。
母や義母が遺してくれた着物を着る機会が増えることを楽しみにしています。
では、今日も前向きに!!
21 健康であること
今年の競泳の日本選手権は涙なくしては見られませんでした。
池江璃花子さんの復帰、4冠は、こんなことがあるのか?と驚きとともに、彼女が心細そうに出場していた初日から、段々と選手として自信をみなぎらせる顔になっていく様子がTVを通して国民全員が見ることができたことに感動しました。
私もがん闘病中は常に死を考える日々でした。
池江さんのエネルギーあふれる顔を見ることで、私まで元気になるのですから不思議です。
健康でいることのありがたさを、誰よりもわかっているもの同士、ただ感謝の気持ちでいっぱいです。
予防医学とは「病気にかからないように予防する」という考え方です。
病気にかかってから治すのではなく、病気になりにくい体作りを推進して健康を維持することを目的としています。
いわゆる心身ともに健康でいる状態を維持することです。
予防医学は、一次予防と二次予防、疾病がいわゆる完成に至っているか否かにより二次予防と三次予防に分けられます。
日本だけでなく、世界中に高齢化が進んでいます。日本ではそれに加えて、少子化、介護を必要とする認知症などが増えてきています。
先進国の中には30年以上前から予防医学を取り入れている国も数多くあり、福祉大国の北欧諸国では、既に国民に予防医学の考え方が浸透しており、寝たきり老人の人数も減少しているそうです。しかし日本では、病気や怪我が起きてから治療するという考え方がまだまだ主流であり、予防医学が重要だという考えも最近になってやっと叫ばれるようになり、今後の国民全体の意識改革の必要を感じています。
一次予防とは?
病気になる前に病気にならないようにすること。
健康診断を受けること・食事に気を使い、生活習慣病にならないようにすること、転倒しないよう生活環境を整えること・予防接種をすることなどがあります。
二次予防とは?
早期発見・早期治療です。
死亡率の低下・生存期間の延長が目的です。
三次予防とは?
リハビリです。
すでに発症した病気の再発を防ぐため、リハビリテーションや心のケアが大切です。
ADL(日常生活の基本的な動作)やQOL(生活の質)の向上や社会復帰が目的です。
プライマリ・ケアという考え方
米国科学アカデミーの医学部門による1996年の定義ではプライマリ・ケアとは、「患者の抱える問題の大部分に対処でき、かつ継続的なパートナーシップを築き、家族及び地域という枠組みの中で責任を持って診療する臨床医によって提供される、総合性と受診のしやすさを特徴とするヘルスケアサービスである」とされています。
日本では総合臨床専門医制度が2017年に発足したが、日本独自の制度として確立していないが、プライマリ・ケアの基本的診療能力(態度・技能・知識)の獲得を目的としている。
私たちは、一日も早くこのような医師や病院、診療所が多くなることを願うばかりです。
健康寿命
2019年の日本人の平均寿命は女性が87.45歳、男性が81.41歳です。
2016年の日本人の平均健康寿命は女性が74.79歳、男性が72.14歳だそうです。
UNFPAが発表した2020年版の世界人口白書(State of World Population)によると、平均寿命が最も長い国(地域)は日本と香港で85歳だった。 2位はオーストラリア、イタリアほか6カ国(地域)で84歳。
平均寿命から健康寿命を引いた、健康期間ではない期間を“寝たきり期間”と表現されています。
日本以外の国では、寝たきり期間が7年程度ですが、日本男性では9.2年、女性では12.7年にも達していて、日本は寝たきり期間世界一になっています。
驚いたことに日本は平均寿命、平均健康寿命、寝たきり期間全てにおいて世界1位なのです。
寝たきり期間が短いことが理想であり、いわゆる、「ぴんぴん、ころり」が私たち皆が望むところです。
そのために、予防医学という考えをみんなで浸透させていきましょう。
「医者は嫌いだ!俺は健康だ!」と言っている人がいたら、10年近く寝たきり期間を過ごしたいですか?と問いかけてみてください。
では今日も1日前向きに!!
20 東京というところ(4)
自家用車
幼いころの写真で、ボンネットの上にちょこんと座っている自分の写真がとても印象的だったことを覚えています。
黒い「オースチン」という自家用車でした。
日産オースチンA40サマーセットは、日産自動車が1953年から1954年まで生産販売した小型乗用車。
イギリスの自動車メーカーブリティッシュ・モーター・コーポレーション (BMC) のオースチン部門が1952年から1954年まで生産した乗用車でした。
我が家は父も母も免許を取得していたので、私たち子どもたちを毎週末、夏は海(江の島や逗子・葉山)へ、冬はスキー(菅平)へ連れて行ってくれました。
夏は、朝3時に起きて、おにぎりとおかずを詰めて(コンビニのような便利なものはありませんでしたから)、日の出前には車で出発します。
子どもたちは海水着のまま、海辺に着くとすぐに浜辺にテントを張って、泳いでは体を焼いて、真っ黒になっていました。
今のように紫外線も強くなく、皮膚がんになる恐れもなかったのは幸いでした。
家からビニールボートを持参して空気を入れて、子どもたちを乗せて沖に行き、泳げなくても放り出す!というスパルタ教育でした。
背のたたないところに放り出されるわけですから、自己流でもすぐに泳げるようになりました。
10時ごろにお弁当を食べて、12時には体の砂をすっかり振り落とし(洗う場所もなかったので、その前にしっかり陽に当たって、砂を落とす)、洋服に着替えて(当時、海の家はなかったと記憶しています)車に乗り、帰宅するのですが、途中に必ず横浜の中華街により、行きつけの「鴻昌(コウショウ)」で、兄たちにはまずラーメンを1杯づつ食べさせ、お腹を膨らませておいて、おもむろに料理を頼む、というパターンでした。これが両親の作戦でした。
私たちきょうだいは、18歳(大学生)になると免許を取らせてもらい、取得して最初の運転は、両親を乗せて箱根や伊豆まで運転することです。
車の中では、両親にずっと怒られっぱなし、これもスパルタでした。
冷蔵庫
このころの三種の神器とは、テレビ・冷蔵庫・洗濯機でした。
電気冷蔵庫が普及したのは、1950年代後半です。
それまでの冷蔵庫と言えば氷を使って冷やすものでした。
これは2ドアの木製の木の冷蔵庫の上の段に氷を入れ、下の段に冷蔵しておきたいものを入れて冷やすというしくみの冷蔵庫です。
我が家にもこの冷蔵庫があり、製氷屋さんが氷を届けてくれていました。
今のように温暖化ではなかったので、夏は30度になると、みんな暑い、暑いといっていました。
ですから氷も見る見るうちに溶けてしまうこともなかったと記憶しています。
昭和28(1953)年のヒノキ製の冷蔵箱の値段は8500円。
これでも10万円以上の感覚であったと思われます。
昭和30年代まではまだ上部に氷を置く木製冷蔵箱のほうが主流でした。
1952年に一般家庭向けの小型冷蔵庫(90L)が発売されました。
価格は8万円前後でした。
昭和35(1960)年に発売された85リットルの電気冷蔵庫の値段は6万2000円。
大卒の初任給の平均が1万6115円の時代ですから、現在の感覚としては50万円以上したということになるでしょうか。
1961年には冷凍庫が付いた冷蔵庫が誕生して家庭で氷を作ることができるようになりました。
これは霜取り機能がついていなかったため、定期的に霜取り作業が必要でした。
1970年代には自動霜取り機能が付いていて冷凍庫が独立した2ドア冷蔵庫が主流となりました。
1980年には野菜室やチルド室、製氷機付きの冷蔵庫がすでに登場してきました。
ベッド
ベッドは昭和31年、当時双葉製作所(現フランスベッド)がソファーベッドを製造、販売開始したのがきっかけといわれています。
その後、昭和38年以降に普及して、その後床張りの部屋が増えていくのもこうしたベッドの普及がきっかけといえます。
私の子どものころの我が家は、床張りで、兄弟が多かったせいもあり、子どもたちは作り付けの2段ベッドで寝ていましたが、両親は昔ながらの畳の部屋で布団を敷いて寝ていました。
布団は出し入れに手間取りますが、部屋を有効に使えるというメリットがあります。
私の祖父はとてもモダンな人だったので、ライティングデスクといって、キャビネットの扉を手前に倒して開けると、その扉の背面がデスク面となるタイプの家具で、書き物をするデスクとブックシェルフが一体になった、広い場所がなくても配置できる机を使用していました。
また壁にそのまましまえるベッドで寝ていた記憶があります。
また我が家にも母が考えた?英国式?壁にしまえるアイロン台もありました。
我が家には、女の子たちの部屋と男の子たちの部屋があり、私は姉と仲良くしていたものの、兄2人はしょっちゅう喧嘩をして、部屋の縄張り争いをしていました。
では、今日も1日前向きに!!
19 がんという病気(2)
宗教に触れること
私が子どものころ、1週間に1度、ある家の2階に子どもたちが集まって、イエスキリストの話を聞く会がありました。
今考えると、キリスト教の布教活動の一端だったのではないかと思いますが、きれいな絵が印刷された紙を1枚いただき、キリストの教えを聞いたのだと思います。
お菓子もいただけるので、子どもたちは喜んで集まったと思います。
我が家は仏教を信仰していたのに、なぜ両親はその教室に子どもたちを通わせたのか?
今となっては聞くこともできず、なぞのままですが、今考えると、私はそこで道徳(生きるということどういうことなのか?幸せとは何なのか?)を学んだような気がします。
私はそこでいろんな話を聞いて、自分で考えることが大好きでした。
宗教には無頓着な両親でしたから、大きな目的があったのわけではなかったと思います。
ラジオ番組で、「心のともしび」がありました。
タッタッター タラタララー タッタッター(楽曲名:メリメント)
河内桃子さんのナレーターで、キリスト教(カトリック)の教えを放送していたのですが、1話、1話が具体的なお話になっていてとても聴きやすかったと記憶しています。
調べてみると、ラジオ放送「心のともしび」は昭和32年(1957年)近畿放送(現在は京都ラジオ)から始まり、全国放送になったそうです。
オープニング曲はベートーベンの交響曲第6番「田園」第一楽章だそうです。
私が聴いていたのは昭和39年(1964年:オリンピックイヤー)より夕方にやっていた「太陽のほほえみ」というラジオ番組で、オープニングに流れていた曲がこのメリメントだったようです。1996年より、この二つが1つになって「心のともしび」に統一されたそうです。
哲学者になる
人間は思春期になると自己のアイデンティティーを確立するために、誰でもある種の哲学者になると思います。
なぜ生きるのか?なぜ働かなくてはならないのか?勉強は何のためにするのか?
など今まで何の気なしにしてきたいろいろな事が不思議に思えてくるのです。
アイデンティティーの確立はなるべく早くした方がいいと思うのですが、人によっては、全くそこにたどり着かない人もいます。
そのまま死を迎えられれば、それはそれで幸せなのかもしれませんが、どこかできっと気づくときが来るのだと思います。
病気、特にがんのような死に直結すると思われている病気になってしまうと、このことに気づかざるを得なくなります。
それまでに考えたことがある人はさほど悩まないのかもしれませんが、突然、死を目の前にして、ほとんどの場合、本人はもちろん、家族も不安を抱えることでしょう。
がんは病気ではありますが、病人になる必要はないのです。あなたは病気の前も後もあなたそのものなのですから。
最近では不安を抱えたがん患者さんやその家族のために、がん哲学外来や腫瘍精神科といったものが創設されています。
中でもがん哲学外来は、NPO法人として全国に活動の場を広げています。「言葉の処方箋」を読んでみてください。
AYA(思春期・若年成人)世代は特に「がん」という病気をかかえ、将来に対する不安や孤独を感じている人も少なくありません。
小川 糸著の「ライオンのおやつ」は末期のがん患者さんのための療養施設の中でのお話です。
私はがんになってからこの本と出会いました。
とても深刻な話ですが、なぜか心がほっこりして、がんで死ぬのも悪くない、と思わせてくれるお話です。
がん哲学外来では、この本の中のようなメディカルヴィレッジ(末期がんの人々の療養施設)の設立を目指しているそうです。
では、今日も1日前向きに!!
18 東京というところ(3)
昭和30年台の子どもたちの生活
そのころ、兄姉は中学、高校生でした。
昭和22年生まれ~24年生まれまでは、第一次ベビーブームで、「団塊の世代」と言われますが、何しろ東京の公立の学校(このころは公立が一番教育水準が高いとされていた)のクラスは40人学級の12クラスくらいあり、試験ごとに上位50人くらいが廊下に張り出されていました。
今回は誰が1番かすぐにわかる方式で、何しろ人数が多いので、競争心をあおるような教育の仕方でした。
というのも、日本は高度成長期時代、東京の公立学校は先生たちの意識が高く、レベルの高い高校や大学に進学させることが最善だと信じていました。
受験戦争の始まりです。
ただ、勉強だけに重きを置いていたのではなかったと思います。
子どもの良いところを引き出して、決してあきらめずに一人一人と向き合ってくれていたと思っています。
今と一番違うところは、親の姿勢だったのではないかと思っています。
その頃の親で最終学歴が大学という人はあまりいなかったように思います。
東京オリンピックの昭和39年の大学・短期大学進学率は総数で23.4%(男子26.9% 女子
19.6%)でした。
2020年度の大学・短期大学進学率58.6%(文部省)ですから、大学入試を全く知らない親がたくさんいて、教師を頼りにするしか方法がなかったので、ほとんどの親が教師を信じていました。
現代は、親が大学卒、大学院卒が増え、教師も大変だろうと察しています。
このころの子どもたちは親から、先生の言うことをよく聞きなさい、わからないことは先生に聞きなさい、と言われて育っているので、子どもも大人も、みんな教師を尊敬していました。
教師も親に本音で話ができたと思います。
子供を褒めるばかりではなく、欠点も指摘してくれました。
みんな(親・教師・地域)で子供を成長させようと思っていました。
子どもたちはみんなの愛に包まれて、すくすくと成長させてもらった気がします。
金の卵、集団就職
1950年代から1960年代の中頃にかけて、春には上野駅は中学・高校を卒業したばかりの少年少女たちであふれかえりました。
彼らは東北・上信越地方の農村部から「集団就職」のために、夜行列車で上京してきた若者たちでした。
戦後の高度経済成長で、大企業のサラリーマンや公務員は高卒者や大卒者を採用したので、下町の町工場や個人商店の人手不足のためでした。
昭和39年の東京オリンピックに向けて、「特需」いわゆる需要がぐんと伸びる時代でした。
都市部の人手不足は深刻で、彼らは、「金の卵」、まさに、得がたい人材となったのです。
夢と希望を胸に都会へやってきた若者は、懸命に働いて職人になった人もいるが、ホームシックにかかる人もたくさんいたそうです。
「金の卵」という言葉が流行語となった1964年(昭和39年)、まさに東京オリンピックイヤーですが、集団就職した彼らを元気づける曲として大人気になった歌が、井沢八郎さんの「あゝ上野駅」です。
♪どこかに故郷の 香りを乗せて 入る列車の なつかしさ
上野は おいらの 心の駅だ
くじけちゃならない 人生が
あの日 ここから 始まった
この歌で、故郷のこと、両親のことを思い出したり、初めて上野駅に降りたときの初心に戻る人もいたのではないかと思います。
上野駅にはこの歌碑があります。
西岸良平の「三丁目の夕日 夕焼けの詩」は、昭和30年代の東京、ある架空の街「夕日町三丁目」を舞台に、そこに住む人々の日常が描かれています。
「ALWAYS 三丁目の夕日」はこれを映画化したものです。
「団地」の始まり
そもそも「団地」とは?
現在の都市再生機構(UR)の前身の日本住宅公団、そのまた前身の「労務者向集団住宅地計画」が昭和10年代に勧めたプロジェクトの名称だそうです。その後日本住宅公団の「公団住宅」という名称に変わっていったようです。
海底炭鉱で栄えた、長崎の軍艦島では、大正5年にRC(鉄筋コンクリート)アパートを日本で初めて建てたので、これが日本最初の労務者向集団住宅地(団地)だと言われています。
また大正13年~相和8年ごろにかけて、同潤会アパート(RCアパート)が東京や横浜に建てられましたが、これは大正12年の関東大震災の復興支援のために設立された団体の、地震や火災に対して耐久性を高めた鉄筋ブロック造の集合住宅でした。当時としては先進的な設計や装備で、住宅史・文化史上、貴重な存在だった。老朽化に寄る建て替え時には歴史的建造物として保存運動も盛んに行われたが、残念ながら保存することは困難でした。
第二次大戦で焼け野原になった東京で、それまでの木造ではなく、火災に強い【燃えない】建築物を建てようとしたときに見本になったのが、この同潤会アパートでした。
団地の設計に当たっては「食寝分離論」、つまりそれ以前の日本の家屋は畳にちゃぶ台で食事をし、ちゃぶ台を片づけて布団を敷く、と言った生活様式だったのを、食事と寝る場所を分離するという考え方、が取り入れられました。
昭和30年ごろから建設が始まった公団住宅では、テーブルと椅子の生活様式・水洗トイレ・ダイニングキッチン・ベランダなどを取り入れた近代的なものでした。ただし、まだ畳の部屋は必ずあり、布団が主流だったようです。モダンな生活を夢見る家族にとっては憧れの住まいでした。
そして「核家族」という言葉の始まりだったのではないでしょうか?
では、今日も1日前向きに!!
17 「未熟」と「成熟」
一人前になるということ
結婚しました!というはがきを頂くと、その中に
「まだまだ未熟な私たちではございますが 今後もご指導ご鞭撻の程よろしくお願い致します」
という文章が必ずと言ってよいほど書かれている。
未熟とは?
学問や技術などの経験・修練がまだ十分でないこと、つまり人生経験が浅く、いろいろな困難にあったときにうまく乗り切る知恵やスキルを持っていないということでしょう。
だからそんな時に私たちを教え、導いてください、といっているのです。
成熟とは?
人間の体や心が十分に成長すること。つまり一人前になるということでしょう。
現代は体は成長しても、心が十分に成長していない「オトナ」が、どれほど多いのでしょう。
そしてそれは年々増えているように思えます。
こういう「オトナ」は一人前とは言えないのではないでしょうか。
これ以上行っては危ないという感覚、ものごとの軽重の判別、これらをわきまえて初めて一人前と言えると思うからです。
子どもはみんな未熟です。一人前の大人の中で、はじめて未熟が守られるのです。
もっと一人前にあこがれるべきです。一人前の意味もわからず、体だけ成長した「オトナ」にならないでほしいです。
そして未熟なものは一人前に対して、ご指導ご鞭撻の程よろしくお願い致します、という気持ちを忘れないでいてほしいと思います。
社会は成熟したか?
昭和の高度成長期時代は、みんな活気があって、キラキラしていた、と以前書きましたが、
みんなが同じ目標、つまり未来の子どもたちのために良い社会にしていこう、という方向に
向かっていたのですから、疑うことなくせっせと働いたのだと思います。
このころは生産力優先の時代と言っていいと思います。
明るく、強く、疑いを持たず、ただひたすらに・・・。
今は、高度成長期が終わり、バブルがはじけて、頂きからゆっくり降りてきている状況だと思います。
この社会の変化は、成熟している過程といっていいのかもしれません。
やみくもに生産力だけを優先して頂点まで登り詰めたところで、バブルがはじけて、いあや、待てよ、今までのやり方、間違っていたかも?と今度は疑いを持ち始めたのです。
高齢化社会になり、働き手である若者の人数が減って、いやおうなしに、生産力優先とは行かなくなったこと、明るく、強く、疑いを持たず、ただひたすらに・・・という時代から、暗い、弱い、疑いだらけの・・・という時代になってきたのではないでしょうか。
今まで考えないようにしていた、心の問題、信仰の問題に向き合う時代と言っていいのかもしれません。
日本人は現実を直視する、ということが苦手な国民性ではないでしょうか。
誰かが何とかしてくれるという甘え、依存の傾向が強く、アイデンティティーの確立、本当の意味の自立ができていないような気がします。
現代社会は未熟から成熟に向かう過程であることは確かですが、それはちょうど、子供が大人に成長するときの思春期に当たるような、激しい葛藤、アイデンティティーの確立の時代と言っていいのではないでしょうか。
誰にも頼れない、日本人が真の日本人となるための混とんとした年月が必要なのかもしれません。
しかし、忘れてはならないことは、私たちは成熟に向かっているということ、決して未熟に戻ってはいけないということです。
日本人の根底にある、弱者との共生、あらゆるものに神が宿る、という精神を大切に、日本人のアイデンティティーを確立していかなければなりません。
日本人は無宗教と言われますが、決して無宗教ではないと思っています。信仰心は誰にでもあるはずです。
経済的に頂点にまで登り詰めた今、ゆっくりと下山するためには、それまで必要としていなかった心の問題(宗教、信仰)が、必要になっていると思うのです。
人間の一生も同じで、若い時は働いて山を登り、頂点に着いたら、後はゆっくり下山して、死にたどりつく。
人間的に成熟した最期を迎えたいものだと思います。
では、今日も1日前向きに!!