昭和30年台の子どもたちの生活
そのころ、兄姉は中学、高校生でした。
昭和22年生まれ~24年生まれまでは、第一次ベビーブームで、「団塊の世代」と言われますが、何しろ東京の公立の学校(このころは公立が一番教育水準が高いとされていた)のクラスは40人学級の12クラスくらいあり、試験ごとに上位50人くらいが廊下に張り出されていました。
今回は誰が1番かすぐにわかる方式で、何しろ人数が多いので、競争心をあおるような教育の仕方でした。
というのも、日本は高度成長期時代、東京の公立学校は先生たちの意識が高く、レベルの高い高校や大学に進学させることが最善だと信じていました。
受験戦争の始まりです。
ただ、勉強だけに重きを置いていたのではなかったと思います。
子どもの良いところを引き出して、決してあきらめずに一人一人と向き合ってくれていたと思っています。
今と一番違うところは、親の姿勢だったのではないかと思っています。
その頃の親で最終学歴が大学という人はあまりいなかったように思います。
東京オリンピックの昭和39年の大学・短期大学進学率は総数で23.4%(男子26.9% 女子
19.6%)でした。
2020年度の大学・短期大学進学率58.6%(文部省)ですから、大学入試を全く知らない親がたくさんいて、教師を頼りにするしか方法がなかったので、ほとんどの親が教師を信じていました。
現代は、親が大学卒、大学院卒が増え、教師も大変だろうと察しています。
このころの子どもたちは親から、先生の言うことをよく聞きなさい、わからないことは先生に聞きなさい、と言われて育っているので、子どもも大人も、みんな教師を尊敬していました。
教師も親に本音で話ができたと思います。
子供を褒めるばかりではなく、欠点も指摘してくれました。
みんな(親・教師・地域)で子供を成長させようと思っていました。
子どもたちはみんなの愛に包まれて、すくすくと成長させてもらった気がします。
金の卵、集団就職
1950年代から1960年代の中頃にかけて、春には上野駅は中学・高校を卒業したばかりの少年少女たちであふれかえりました。
彼らは東北・上信越地方の農村部から「集団就職」のために、夜行列車で上京してきた若者たちでした。
戦後の高度経済成長で、大企業のサラリーマンや公務員は高卒者や大卒者を採用したので、下町の町工場や個人商店の人手不足のためでした。
昭和39年の東京オリンピックに向けて、「特需」いわゆる需要がぐんと伸びる時代でした。
都市部の人手不足は深刻で、彼らは、「金の卵」、まさに、得がたい人材となったのです。
夢と希望を胸に都会へやってきた若者は、懸命に働いて職人になった人もいるが、ホームシックにかかる人もたくさんいたそうです。
「金の卵」という言葉が流行語となった1964年(昭和39年)、まさに東京オリンピックイヤーですが、集団就職した彼らを元気づける曲として大人気になった歌が、井沢八郎さんの「あゝ上野駅」です。
♪どこかに故郷の 香りを乗せて 入る列車の なつかしさ
上野は おいらの 心の駅だ
くじけちゃならない 人生が
あの日 ここから 始まった
この歌で、故郷のこと、両親のことを思い出したり、初めて上野駅に降りたときの初心に戻る人もいたのではないかと思います。
上野駅にはこの歌碑があります。
西岸良平の「三丁目の夕日 夕焼けの詩」は、昭和30年代の東京、ある架空の街「夕日町三丁目」を舞台に、そこに住む人々の日常が描かれています。
「ALWAYS 三丁目の夕日」はこれを映画化したものです。
「団地」の始まり
そもそも「団地」とは?
現在の都市再生機構(UR)の前身の日本住宅公団、そのまた前身の「労務者向集団住宅地計画」が昭和10年代に勧めたプロジェクトの名称だそうです。その後日本住宅公団の「公団住宅」という名称に変わっていったようです。
海底炭鉱で栄えた、長崎の軍艦島では、大正5年にRC(鉄筋コンクリート)アパートを日本で初めて建てたので、これが日本最初の労務者向集団住宅地(団地)だと言われています。
また大正13年~相和8年ごろにかけて、同潤会アパート(RCアパート)が東京や横浜に建てられましたが、これは大正12年の関東大震災の復興支援のために設立された団体の、地震や火災に対して耐久性を高めた鉄筋ブロック造の集合住宅でした。当時としては先進的な設計や装備で、住宅史・文化史上、貴重な存在だった。老朽化に寄る建て替え時には歴史的建造物として保存運動も盛んに行われたが、残念ながら保存することは困難でした。
第二次大戦で焼け野原になった東京で、それまでの木造ではなく、火災に強い【燃えない】建築物を建てようとしたときに見本になったのが、この同潤会アパートでした。
団地の設計に当たっては「食寝分離論」、つまりそれ以前の日本の家屋は畳にちゃぶ台で食事をし、ちゃぶ台を片づけて布団を敷く、と言った生活様式だったのを、食事と寝る場所を分離するという考え方、が取り入れられました。
昭和30年ごろから建設が始まった公団住宅では、テーブルと椅子の生活様式・水洗トイレ・ダイニングキッチン・ベランダなどを取り入れた近代的なものでした。ただし、まだ畳の部屋は必ずあり、布団が主流だったようです。モダンな生活を夢見る家族にとっては憧れの住まいでした。
そして「核家族」という言葉の始まりだったのではないでしょうか?
では、今日も1日前向きに!!