102 薬剤師あるある(19)
方丈記の冒頭の
「ゆく川の流れは絶えずして。しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮かぶ泡沫は、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」
川の流れをじっと見つめているといつもこの言葉を思い出します。
自分の人生を振り返り、いろいろな事があったけれど、結局はこういうものなのだな~
とつくづく感じます。
誕生し、成人して、子供を育てて、次の時代に受け継がれていく、その人間としての流れは、この言葉に言い現わされている通りです。
自然界のものはすべてこういうものなのかもしれません。
人間の細胞も常に入れ替わっています。
今日の私は昨日の私ではないにもかかわらず、いつも同じ人間(自己同一性)です。
ゆく川の流れは絶えずして。しかも、もとの水にあらず。
人間の体は、固体だと思っている人が大半だと思いますが、実は絶えまなく流れている流体なのです。
流れ去ると共に作り換えているのです。
つまり、合成と分解が常に小さく行われているために、大きく変化しないのです。
人間の身体をジグソーパズルに例えることができます。
もし1ピースが分解され、抜け落ちてしまうことがあっても、その周りの何ピースが残っていれば、捨てられたピースのかたちはそこだけ切り抜かれたように保存されます。
するとそのかたちに合わせて新しいピースができ、そのピースがどこにはまればいいのかが自動的に決まってきます。
この仕組みのことを「相補性」といいます。
ミクロなパーツがどんどん入れ替わっても、パズル全体の図柄は相補性によって支えられているので、大きく変化することがなく、自己同一性が保たれるのです。
人間の体を機械とみなす、機械論的な思考では、例えば膝が痛くなったので、膝の部品を新しくすれば痛みは消えるのか?
答えはいいえです。
膝が痛くなるということは、膝の部品がダメになるから痛くなるのではなく、身体のさまざまなところの平衡が乱れて、その負担が膝にかかっているから痛くなるのです。
身体の平衡が回復しない限りはまた痛くなるのです。
このように機械論的な思考では、局所的に問題が生ずればそこだけ取り換えればいい、と考えます。
ですが、生命は動的平衡として相補的な関係があるので、部品、部分という考え方はなじまないのです。
また、動的平衡の考え方では、生命は連続しているので時間軸に沿って簡単に分けることができません。
人間はいつか絶対に死ぬのですが、死はある瞬間に訪れるものではありません。
心臓が止まったり、呼吸が止まったりしても、身体の細胞の大半はまだ生きていて、酸素や血液の供給が止まると徐々に死んでいきます。
ですから人が死ぬまでには時間がかかるものなのです。
死はどこかで一度に起こるものではないのです。
ですが、それでは法律が決められなかったり、様々な不都合が起こるので、一応
「死はここで起きます」という風に人間が勝手に分岐点を作っているのです。
脳死問題がいい例でしょう。
脳死問題とは、死ぬ時点がいつか?という考え方です。
古典的には
①心臓が止まる
②呼吸が止まる
③瞳孔反射(目に光を当てると瞳孔がキュッと閉まる)が消える
の3兆候が現れた時点が死であるという考えでしたが、
最近では「脳が死ぬ」ことが人間の死だと考えるようになりました。
「脳死」を人の死にすることによって、まだ生きているのに死んでいるとみなすことができ、ある一定の時間を設けることができます。
すると生物的にはまだ生きている身体から臓器を取り出しても殺人には当たらないので臓器を別の人に移植することができるようになります。
つまり、脳死は、死の地点を前倒しにすることで、臓器移植ができるようになるという機械論的な生命観に基づく生命の分断といえるのです。
このように人間の死を時間軸で決めることはできないと、福岡氏は言っているのです。
なぜなら、人間は動的平衡にある流れの中で生きているから。
皆さんも、生命を、動的平衡・相補性という考え方で見てみると、今までとは違った考え方ができるかもしれません。
では今日も1日前向きに!!