10 東京というところ(1)
東京オリンピック
前回のブログで、うつ病の話をしましたが、なぜこんなに生きづらい世の中になってしまったのでしょうか?
私は小学5年生の時に東京オリンピックを経験しました。
東京のど真ん中で生まれ、東京育ちの私は小学校でオリンピック音頭を踊りました。
国立競技場にも行かせてもらいました。
その当時(昭和39年)の東京は右肩上がりの急成長中でしたので、誰もが今まで見たこともないような国々の人に会える、と期待に胸膨らませたことでした。
都電の上に高速道路ができて、街は一気に変わりました。
その頃の小学生の遊びは、鬼ごっこや石・缶けり、縄跳びゴム跳び、メンコやベーごま(アメリカのこまの意味?)。
東京にはすでに原っぱがあまりなかったので、わくわくするのは、空き家の中の探検くらいで、草野球もできなければ、思いっきり走る回る場所もありませんでした。
まだ小さな商店がたくさんあり、お店の人との会話が生活の一部になっていて、どこの店主も私たち子どもを自分の子どものように可愛がってくれました。
子供がおつかいの手伝いをしていると、必ず商品をひとつ多めに入れてくれ、
私 「わるいから、いいです。」
店主 「子供が遠慮なんかしちゃいけないよ。子どもは子どもらしく無邪気にね!」
と優しいまなざしで子供を育ててくれました。
その頃は大人が生き生きとしていた印象があります。
もちろん生きづらさを感じていた人がいなかったとは思いませんが、高度成長期でみんなが同じ方向を目指していたように思います。
労働条件は悪く、朝早くから夜遅くまで、みんなが良く働いていましたが、誰も文句を言う人はなく、キラキラ輝いていたように思います。
子どもたちに幸せな未来を作るために。
旅行に行くなんて贅沢な!という共通意識があり、子どもたちも毎日忙しい両親に連れて行ってもらえるなんて思ってもいませんでした。
小学校の先生が子どもたちのために毎年スキーに連れて行ってくださったこと、近所の方の従業員の慰労旅行に連れて行ってもらったこと、いろんな家庭で食事をご馳走になった事(みんな街の子どもたちは自分の子どもと同じという考え)、今懐かしく思い出されます。
子どものころから世の中にはいろいろな家庭があり、いろいろな考え方があるということを身をもって経験できました。
そうそう、家庭の主婦は例外なく白い割烹着を着ていて、割烹着を着たまま、買い物かごを手に下げていました。
今でいうエコバックです。八百屋さんも魚屋さんも天井からゴムでつりさげたかごの中にお金が入っていて、それを上から伸ばしてお金の出し入れをしていました。
豆腐屋さんには必ず小さなボールかお鍋を持って行き、店主さんが腕まくりをした手を冷たい水の中に入れて手のひらで豆腐を切って1丁入れると、豆腐が乾燥しないように白い紙を上に乗せてくれました。
魚屋さんは薄い竹の皮か木製の薄い紙のようなものをくるっと回して袋状になるようにして魚を入れ、新聞紙で包んで渡してくれました。
肉屋さんはこの紙のようなものに肉を平に入れて、両側から包み、紙でできた紐で結んで肉の包みを下で回転させて結んでくれました。
私にとっておつかいはとても興味をそそることでした。
そこで交わす店主とのやり取りも楽しい時間でした。
どこの店主もそれぞれの家庭の人数や顔や特徴を知っていました。
ところで、 この時代の平均寿命はいくつだったか知っていますか?
男性:68歳(2020年の平均寿命は81歳)
女性:73歳(2020年の平均寿命は87歳)なのです。
この頃の高齢者はあまり外出はしませんでした。
今では、信じられないことですようね。
ですから若者が多く、街にも活気があった気がします。
人工の街 東京
東京オリンピック以降、社会が成長すると共に、小さなお店はスーパーにとって代わるようになりました。
可愛がってくれた店主たちは時代の流れとともに自分のビルの最上階に住むようになり、顔をあわせることもなくなりました。
人間同志の血の通った社会(自然)というものとは程遠い、人工の街の始まりです。
その後東京はどんどん変わっていき、もはや私の生まれた街は全く違った街になってしまいました。
移り変わる東京を見ながら、私はどう感じていたか?
みるみるうちに知らない誰かが街を作り変えていき、自分は取り残されていく感じがしました。
以前から東京にいたものたちが、ついて行けなくなったのです。服装もどんどん変わり、気が付けば、私たちのほうが、野暮ったい服を着ていました。
現在IT化が進み、私たち高齢者がついていけない状態と同じだったかもしれません。
私は自分の街が誰かに奪われてしまった感じがしています。
私たちが子どものころは、大人がモデルで、そこには共通のモラル(伝統や慣習)がありました。
大人たちは真剣に子どもたちにモラル(小学校に道徳の時間がありました)を教えてくれました。
街にはおせっかいな人がたくさんいて、みんなで私たちを育ててくれました。
この40年くらいの短い時間の急激な変化で、私たちは共通のモラルを失い、多様性だけを身につけてしまったのではないでしょうか。
ある時、通勤電車の中で若い女性がお化粧をしていたり、朝食を食べている光景を目の当たりにして「なんでもあり!!!という社会になってしまったのか・・・」と愕然とした事を思い出します。
この多様性とは、ある一定のモラルの上の多様性でなければならなかったはずなのに。
なぜ生きづらいのか?
人間には変化に順応しようとする能力(大小にかかわらず)が備わっています。
順応しようとする間には、悩んだり、苦しむのですが、その苦しみを分かち合える友達や、相談できる信頼できる人、心配してくれるおせっかいな人がいなかったりでコミュニケーションの機会を失い、自分をわかってもらうすべを失い、孤立していき、生きづらくなってしまうのではないでしょうか。
東京は、他人のことを考える余裕のない人々であふれ、とても生きづらいところになってしまいました。
東京は自然を排除し、どんどん人工的になっていきます。
養老猛司さんが言うように、子どもは自然の象徴です。
人工の街では少子化は当然の結果です。
人間にとって、自然の排除は人間性の喪失であり、精神を病むのは自然なのかもしれません。
一寸先はやみだけど、光を探して、過度の期待をせず、歩き続けましょう。
どうかコロナ鬱にならないように!!
では今日も1日前向きに行きましょう!!
9 がんという病気
がんという病気が私にもたらしたもの
私は小さいころから人間の身体にとても興味がありました。
父が開業医で、外科出身だったため、診療室で簡単な手術をしていました。
昔は家族で父を支えていたため、私は照明係で良く使われました。今では信じられないことですが・・・。
というのも、姉は血を見ると失神してしまうため使えなかったからでした。
ちょっとした傷の縫合手術をじっと見ているのが好きでした。
社会人になり、勤めていた大学病院でオペが見学できると聞くと、よくお昼休みに見学に行ったものです。
小さいころの私の関心事は人間の身体そのもののほか、人間の心や行動でした。
家に来るお客さん(人の出入りの激しい家でした)の話し方や行動を真似して見せたり、話している言葉をにわかには信じられず、腹の中を覗いたり・・・。
末っ子ということで兄や姉たちの行動や両親の対応をじっと見て、危険を察知する能力を身につけたようです。よく、要領のいい子といわれました。
私の生まれ育った環境のせいか、小さいころから人の死を経験することが多かったように思います。いつも、人間とは?死とは?自分ながらに考えていました。ですが、答えを求めるために本を読みあさることはなく、ひたすら人の観察をしていた小学生でした。
ブログの最初に書いたように、小学生の時から内観(内省)、つまり自分の中で沸き上がる感情を分析していたように思います。兄たちにいじめられたときは、悔しくて地団駄踏んでいましたが、なぜ兄たちは私をいじめるんだろう?私はいじめられるとなぜくやしいんだろう?とノートに書いていた記憶があります。今残っていれば見たいのですが・・・。
内観を続けることで、不思議と自分の中に沸き上がった感情をコントロールまでは行かなくても鎮めることができるようになりました。つまり自分の感情を冷静に分析できるようになったのではないかと思います。
もともと負けず嫌いで勝気な性格で、悔しい、うらやましい、という感情が強かったのですが、その感情を心の中で処理することで、表に出さずにポーカーフェイスでいられるようになったのです。そのお陰で、人に何を言われても怒らない人、動じない人という印象を与え、
人から相談されることが多くなった事は、今の仕事にプラスに働きました。
64歳でがんのステージ4だと知った私は、もちろんショックを受けました。
自分の中で沸き上がる感情を分析してみました。
まだ死にたくない!
夫を残して死ぬわけにはいかない!
もっと生きて、孫の顔が見たい!
夫婦や家族ともっと旅行がしたい!
仕事は、どうしよう!
書いているうちに、自分でも気が付いたのです。
これって生きているうちに何とか出来ることじゃない?
そうだ!死ぬまで生きられるんだ!
時間が限られた分、今からいつ死んでもいいように準備しよう!
がんという病気は最後まで意識はある(脳は例外)ので、準備ができるのがいいですね。
というわけで、仕事は自分の後を任せられる人を見つけ、すぐに仕事に慣れてもらうことにしました。コロナ禍で旅行はできなかったのですが、夫が困らないよう、生きている間に
できることをしています。
一寸先はヤミ。いいじゃないですか!ヤミの中で光を探すことを面白がりましょう。
死を意識し始めてから、人生はバラ色です。死以上に怖いものありますか?
怖いものがなくなったので、開き直り状態、裸の自分でいられることの心地よさ。
反対に、今まで我慢してきたことが、なんと多かったことか!!
転んでもただは起きない
この言葉の意味は、たとえ失敗してもそこから何か得ようとする。
欲の深い、また根性のある人。
欲が深い?良い意味だと思っていましたが・・・。
がんという病気でこけてはしまいましたが、それから得られるものの多さに、自分でもびっくりしています。
ブログを書こうと思ったきっかけもそうです。
もともと強い人だからそういう風に考えられるの?
答えはNOです。
性格的な強さ、弱さではないと思います。
現実の受け取り方・ものの見方の違いだと思います。
うつ病の治療のひとつに、認知療法(認知行動療法)があります。
認知とは自分の考え方や感じ方のことで、このせいでストレスを感じて病気になるという
考え方です。この認知のゆがみを本人に発見させることによって、心理的ストレスをなくして、より楽に過ごせるようにするのです。
身についた認知を変えることは、相当難しく、つらいことだと思いますが、この過程に内観が必ず必要になってきます。
なぜ自分がこのような現実の受け取り方・ものの見方をするようになったのか?
自分の生い立ちやつらい経験など否が応でも思い出さなくてはなりません。
そして自分でその認知のゆがみに気づくことから始まります。
人から指摘されるのではなく、自分で発見することがもっとも大事です。
気づいてしまえば、後はそれほど難しくないでしょう。
考え方が変われば、行動が変わります。
それでも心理的ストレスを感じて、どうにもならなかったら、逃げればいいんです!!
逃げるという行為も現実の受け取り方のひとつの方法ですからね。
心理的ストレスを感じない生活、どんなに楽しいでしょうね。
では今日も1日前向きに!!
8 がんと闘うか??
がんは闘える病気
私はどんな副作用が出ても治療を続ける覚悟でした。
現在乳がんは闘える病気と言われています。
実際抗がん剤の効果があり、副作用も少ない分子標的薬も多くあります。
これらの薬を使用すれば、ステージ4の場合、根治はできなくても延命(ここでは普通の生活ができるための)することができます。
もちろんステージ1では根治ができます。
がんと告知されて、抗がん剤を拒否する人がいます。
身体が弱い人、薬に弱い人、副作用が心配な人などさまざまな理由が考えられます。
前回も書きましたように、エビデンスに基づいた標準治療(手術・抗がん剤・放射線・ホルモン療法)はできるなら、やった方がいいと私は思います。
抗がん剤は毒以外の何物でもない!といった考え方もあるのは承知しています。
副作用の大小はあるものの、がんに効果があることがわかっている薬ですから、まずはやってほしいと思います。
間違っても標準治療を拒否して、標準外治療(代替療法)を選択したり、標準治療を途中でやめて標準外治療に切り替えたり、標準外治療をやってみたものの結果が芳しくないので、標準治療をあとからやるようなことはやめた方が良いと考えています。
標準治療以外はすべてダメ?
もちろん標準治療のほかにも公的医療保険が適用される代替治療法があります。
温熱療法や免疫療法です。
特に免疫療法は免疫細胞ががん細胞を攻撃するメカニズムが明らかにされ、正常細胞に影響なく、がん細胞を攻撃するという特異的がん免疫療法が脚光を浴びています。
現在の免疫療法は、体全体の免疫の活性化しかできなかった非特異的がん免疫療法※1から、がん細胞に特化して免疫力を高め、より効率的にがんに作用する特異的がん免疫療法※2です。
※1非特異的がん免疫療法の中には免疫チェックポイント阻害剤(現在注目されている)があり、その代表薬はオプジーボで、すでに保険対象になりました。
免疫チェックポイント阻害剤とは、がん細胞による免疫抑制の作用を解除することで、免疫力を高めようとする治療法で、高い腫瘍縮小効果も報告されています。
またエビデンスに乏しいので保険対象にはなっていませんが、丸山ワクチンもあります。
※2特異的がん免疫療法とはがん細胞の中の敵(抗原)の目印を見分けて、ピンポイントでやっつけようという治療法で、がんワクチン治療、がんペプチドワクチン療法があります。
がん細胞だけをやっつけるので、副作用が少ないのがメリットでさらなる研究が進められています。
免疫療法は治療の個人差(個人の免疫力の差)も多く、他の治療と併用したりするなど、患者さんに合わせた個別化治療が期待されています。
今後は現在の標準治療がこれらに取って代わることもあるでしょうが、今はやはり現在の標準治療を受けてからこれらを考えるのはどうでしょうか。
ステージ4の場合、手術・放射線はやってもやらなくても良かったのですが、私は自分ですべてすると決めました。
今の標準治療を受けたことがよかったかどうかは、私が元気でいることで証明されることを祈っています。
では今日も1日前向きに行きましょう。
7 人を信じること
主治医とよく話し合うこと
私の主治医はおだやかなやさしい先生です。乳腺外科の先生で、執刀もお願いしました。
先生の対応の仕方でこちらの受け止め方もかなり違ってくると思います。
幸いおだやかな先生ですので、困った顔でステージ4を告知なさいました。
決して5年生存率が30%なんておっしゃる先生ではありません。
ましてや、こんなになるまで何で検査しなかったんですか!!と怒る先生でもないです。
人間同志ですから、合う、合わないはあると思います。
ステージ4の場合手術をするかしないかはあとで考えることにして・・・
という言葉がどうしても気になったので、先生に伺いました。
私 「手術してもしなくても5年生存率には変わりがないということですか?」
先生 「まあ、そういうことです。」
先生はとてもいいにくそうにそう答えられました。
先生から考えれば、何歳であろうと、女性にとってデメリットになると思われる、乳房全摘手術を選択することが忍びないと思われたのでしょう。
私はとことん合点が行かないことを始めるつもりがなかったので、先生に疑問点をお聞きし、答えに納得がいくまで話し合いました。
ここが少し難しいところですが、先生の方から事細かに逐一説明はなさらないと思います。
こちらにある程度の知識がないと、なかなか疑問点を伺うことができないのではないでしょうか。
ご家族同伴で、医療の知識のある方同伴で伺うことが肝心です。
また、この先生は?ともし思うのでしたら、セカンドオピニオンという選択もできます。
私は先生とお話することで、先生を信じることにしました。
そして、自分の判断で乳房全摘・再建なしをお願いしました。
結局温泉に行ってもつまらないことにはなったのですが、どうしてもがんを見ながら生活することが嫌だったのです。
医師は、エビデンス(根拠・証拠)に基づいた治療方法を選びます。
治療方法を決めるのは患者自身です。
抗がん剤をしたほうがいいと医師に言われても、患者にはNOといえる権利があります。
私は薬剤師ですから、患者でもどちらかというと医師よりの患者だと思います。
薬剤師にとってもエビデンスに基づいた薬の選択は不可欠です。
私は先生を信じています。
先生が選択した治療方針を積極的に受けようと思いました。
そのベースには、今まで病気にならなかったこと、身体が丈夫なこと、副作用がどんなものでも後悔せず、受け止めようという覚悟※がありました。
人によっては重大な副作用を起こすことも事実なので、自分の身体と相談しながら、自分で決めることが大切です。
自分で決めれば、後悔することもないでしょうからね。
※覚悟とは?
危険なこと、不利なこと、困難なことを予想して、それを受けとめる心構えをすること。
私はこの【覚悟】という言葉が大好きです。
考えてみれば、最初の覚悟は『結婚』でした。
私たちの時代は、女性が結婚する、相手の両親と一緒に暮らす、ということは、二度と実家の敷居をまたがない!(ちょっと古いから私だけかも?)覚悟を持たなければできないことでした。
私は相当冒険心が強かったのでしょうね。
環境のちがう場所で自分を変えたいという気持ちが大きかったのかもしれません。
結婚生活中は子供がなかなかできなかったり、思うように子供を育てられなかったり、義両親や主人が病気になったり・・・といろいろと困難なことがありましたが、その時思ったんです。
考え方を変えよう!と。
子供ができなくても堂々と生活していこう。子供がうまく育たなくても、一生懸命したんだから、堂々としていよう。
もともと子どもは思うように育たないものなんだから。
そして、いつも笑顔でいよう!
こんな時、誰が笑顔でいられるの!!と自問自答の連続でしたが、変わらず笑顔でいようとしたことが、今の私の誇りにも強みにもなっています。
実際、母親が笑顔でいないと、家庭は暗くなりますよね。
主治医を信じたらとことんまでついて行く、覚悟で治療に入りました。
次回も時々脱線しますが、お楽しみに。
今日も一日前向きに!!
6 死ぬまで生きられるんだ
ブログの始めに書いたように、私は64歳の時に乳がんステージ4と診断されました。
先生からそう聞かされたとき、どう感じたのかについて書いて行きます。
がん告知の気持ち
診断されるまでに、マンモ検査やレントゲン検査・CT検査をし、細胞診もしたので、それまで乳がん検査を怠ってきた結果なので、どんな結果が出ようとしようがないと思っていました。
もともと硬かったお乳の周りから、急に出現したように思えた乳がんとは言え、がん自体が相当大きかった(直径3cmくらいのボール)ので、がんかな?がんじゃないかな?いや、がんに決まってる!と心は揺れ動いていましたが、私の本来の性格でしょうが、最悪を想定することで腹をくくろうと思いました。
こんなに大きいので、リンパには転移しているだろうな、とは思っていました。
もしかしたら1年生きられないかもしれない!と思うと、そうだ、死ぬまで生きられるんだ!
私には限られた時間しかないんだから、死ぬときに笑って死ねるようにしようと自分でも想定していなかった明るい未来が見えたのです。
これこそ、一寸先の闇に光が見えたのです。物は考えようでいくらでも変わるということですね。
自分の両親や高齢者と接する機会が多かったので、年を取るということが必ずしも楽しいことではないこと、できないことが多くなり、病気がなくても気分も沈みがちになること、みんなが口をそろえて“早くお迎えが来ないかしら?”を目の当たりにして、自分もこういう高齢者にはなりたくないな〜と思っていました。
でも、当の高齢者は自分がこうなりたくてなっているわけではないのです。
自分達のお手本(良いも悪いも)になるような高齢者を今まで見たことがないのですから。
常々こんなことを考えていたので、命の終着点をがんが教えてくれたことは、私にとっては朗報でした。
もし若い時にこうなっていたら、全く違う気持ちだっただろうとは思いますが・・・。
ですから、先生からのがんの告知で、青天の霹靂!なんてことはありませんでした。
先生のお話はこうでした。
乳がんで、リンパに転移している(ステージ3)、肺と骨に転移しているので、ステージ4になります。
あなたの場合は手術はまたあとで考えることにして、まずは抗がん剤を始めましょう。
やはりショックでした!!
乳がんのステージ4の5年生存率は30%。
手術はあとで考える?どういうこと?
肺への転移についてはがんが散らばっていたら手術もできないし、どんどん進行するだろうから、これから大変になるだろうな。
最悪の想定以上の最悪の状況。
仕事復帰どころか、残された時間は1年ないかもしれない・・・なんて頭の中でグルグルと考えを巡らせていました。
ところが私の思いとは裏腹に、先生は間髪入れずに、肺には1個しか見当たらないから、手術して取りましょう!
ただし、これが肺への転移なのか、肺にできた違うがんなのかは取ってみないとわかりませんがね。
というわけで、私は考える暇もなく、入院・手術の準備をすることになり、あっという間に肺の手術(胸腔鏡手術)を終え、それが乳がんの転移だったことがわかったのです。
入院は5日間でした。
とは言え、ステージ4という状況は変わらず、5年生存率は30%ですから、常に死を意識して生活していくことになります。
その後の私の気持ちの変化
ところが、その間に腰の椎体に転移したがんが増殖していて、肺の手術を終えて退院する日にまともの歩けなくなっていました。
ショックはいつの間にか痛い!に代わり、怖いとか、悲しいとかの感情が沸き上がる暇もないほどの早さで、毎日が目まぐるしく過ぎて行ったのです。
痛い!つらい!錐体のがんが足の神経を圧迫しているのか、足を動かすこと、それ以前の足を延ばしていること自体が痛いのです。
足を縮めて小さくなっているのが一番楽、といっても痛いのですが、唯一入浴が私の最大の楽しみでした。
下半身を温めることに寄って痛みが消えました。
衣服の上から貼るタイプの温湿布が重宝しました。
坐骨神経痛はマッサージの方から言われました。
鍼治療が一番効果がありましたが、マッサージの方に、下肢の痛みの中で坐骨神経痛が一番つらいです!と言われ、下半身を切り離してしまいたいと思うほどでした。
この間の私の気持ちは、がんであることを考える余裕がありませんでしたので、まずはこの痛みから解放されたい!!それだけでした。
この後車いすでの抗がん剤の治療が始まり、3週間ごとの2回目を終えたあたりで、急に下半身の痛みが取れてきたときは、天にも昇る気持ちでした。
では次回をお楽しみに。
今日も前向きに1日頑張りましょう。
5 注射(ランマーク)開始
骨粗しょう症について
(転移した骨への治療)
今までの抗がん剤は転移した骨にも効果があったようで、画像でははっきりとはわからないのですが、骨の状態は当初のままで、増殖していないとのことでした。
骨への転移はとても判断が難しいそうです。
骨代謝回転と言って破骨(骨吸収)と形成のバランスがうまくいっているといいのですが、私の場合は、がん細胞が破骨に傾き、骨形成が追いつかないため、骨はどんどん壊れていくのです。
そこで、骨吸収抑制薬としてランマークの注射をすることになりました。
最初は4週間ごとで2019/9/30に開始しました。
骨吸収抑制薬の中でも一番強い注射を使用するので、血液中のCaはどんどん骨に流れていくため、血中Ca値※は低下していきます。
※Caは身体にとって大切なミネラルの一種で、低下すると死に至ることもあります。
常に血中Ca値を測定しながら治療を進めていきます。
ですから、この注射をしている間は、デノタスチュアブル配合錠(CaとビタミンDの合剤)を服用していかなければなりません。
私は2021/1まで約1年4か月続けましたが、この副作用の顎骨壊死・顎骨骨髄炎を起こしてしまったようで、一時中止するのか?そのまま続けるのか?先生と相談しているところです。
この注射の一番難しいところは、注射を中止すると骨代謝回転の破骨(骨吸収)進んでしまうことです。もし中止する場合は、何らかの破骨(骨吸収)を抑制し、する薬が必要になることですが・・・。
女性ホルモンが低下してくると、骨粗しょう症が進むことは知られています。
骨粗しょう症の薬
- ビスホスフォネート(BP)製剤
- 活性型ビタミンD3製剤
- 女性ホルモン製剤
- デスノマブ(私が使用している注射)
- 低カルシウム(Ca)血症の治療
などがあります。
顎骨壊死の副作用のあるビスホスフォネート製剤と私の乳がん(HER2)には使えない女性ホルモン製剤以外を考えなければならないことです。
ビスホスフォネートはもっとも骨代謝回転への作用が強いので、使えないのは困ったものです。
抗がん剤の点滴をやめてみると、身体はどんどん元に戻っていきます。
身体から抜けていくのがわかります。
あんなにしゃがむのがつらかったのに、難なくしゃがめるし、立ち上がりにも苦労しなくなります。身体が段々軽くなっていくようです。
髪の毛も前髪とてっぺんの毛が少しずつ増えてきました。
2年半ぶりに美容院に行き、柔らかくなった髪の毛の先を切ってもらって、ちょっと古いですが、白髪のベッカムにしてもらいました。
そのまま知り合いの誰にも会わずに家に帰ることができましたが、やはりまだまだ、いや、ずっとカツラで行こう!という決心は変わっていません。
仕事をやめたら、地毛に戻るつもりです。
身体はどんどん楽になっていきますが、抗がん剤を使用していない不安(転移した細胞がここぞと増殖するのではないか)は常にあります。
定期的に検査するとはいえ、不安です。
いつ死んでもいいの!といっている割には不安なの?と思われるでしょうが、高齢者が、私はいつお迎えが来てもいいのよ~といいながら、定期的に通院しているのと同じだな~と思います。
どこか吹っ切れていないですね!!
がんの治療については一応これで終了です。また何か変化があったら書くことにします。
では来週も前向きに!!
4 左乳房全摘出手術
私 「もちろん全部摘出してください!」
主治医 「あなたの場合は左乳房が全部なくなるけど……。それでいいですか?」
「乳房再建※もできますが、再建したい場合は、手術前に決めてください。」
私 「良いです!何しろ全部取ってください!乳房再建はしません!」
※乳房再建の時期には2つのパターンがあります。
切除術と同時に乳房の再建を行う即時再建と切除術後に行う2期再建ですが、即時再建が推奨されていますので、なるべく手術前に決めることをお勧めします。
即時再建とは、乳房切除と同時に組織拡張器(エキスパンダー)を挿入するものです。
その後、乳房の大きさにより、3ヶ月から半年くらいの間、月に1度程度の外来で、エキスパンダーに生理食塩水を注入していきます。
エキスパンダーを入れた胸が反対側の乳房より充分に大きくなったら、シリコンインプラントに入れ替えるか、自家組織を挿入するかを決めます。
2020/5/21左乳房全摘出手術をしました。
結局2種類の細胞障害性抗がん剤では乳房のがん細胞はあまり小さくなりませんでした。
術後の排液がなかなか止まらず、ドレーンはなかなか外せませんでした。
手術が上手だった?からか、左手は難なく上まで上げることができました。
リンパ節をごっそり除去したことと、神経をいくつか切ったので、左手が浮腫むかも?と言われましたが、浮腫むこともなく問題なかったので、最後は排液が出ないように腹帯ならぬ胸帯(お祭りの時女性が胸に巻くさらし)をきつく巻いて、入院11日目に退院しました。
きつかった抗がん剤は乳房にはあまり効かなかったけど、転移した椎体のがん細胞には効いたらしく、その後歩けるようになったので、大変だったけど、やってよかったと思いました。
退院して1ヶ月後の7月3日に除去した乳癌の細胞診の結果が出ました。
ホルモン受容体陽性かつHER2陽性 2+※でした。
※HER2
がん細胞の増殖に関係するタンパクです。がん細胞にHER2を作る働きがある「HER2遺伝子」が過剰で、がん細胞の表面にHER2が大量にある場合「HER2陽性」と呼ばれます。
「HER2陽性」は、「HER2陰性」と比べると増殖する力が強いことがわかっています。
今後の治療方針
① 抗女性ホルモン剤(アリミデックス:アナストロゾール)を毎日1錠服用。
② HER2の分子標的薬(パージェタ&ハーセプチン)の3週間に1回点滴。1年間
③ 乳房リンパに毎日(土日を除く週5日)少量の放射線を照射する。24回
① 抗女性ホルモン剤(アリミデックス:アナストロゾール)
すぐに毎日1錠服用開始しました。
副作用の手の強張り、関節痛はすぐに現れました。ひどい人は親指の内側に痛み止めの注射をするらしいのですが、幸い私はひどくならず軽度に続いています。
② 分子標的薬(パージェタ&ハーセプチン)の投与開始
7月22日に1泊入院で開始。
分子標的薬は、ほとんど副作用なし。最初2回行った、細胞障害性抗がん剤のように白血球数が減少することもなく、ムカムカすることもありませんでした。
足のむくみと痺れは続いていたのでよくわかりませが、2年経てみると、不思議に軽減してきているので、この分子標的薬の副作用ではないと思います。
心臓への負担があるとのことでしたが、定期的な心エコー検査では異常はありませんでした。
その後問題なく1年経過しましましたが、この抗がん剤がどう効いているのか、乳房は切除したし、肺の転移も除去してしまったし、骨の中にがん細胞があるかどうかを検査することができないとのことで、中止して良いのかどうか迷いました。
主治医 「分子標的薬は目標の1年が経過しました。腫瘍マーカー※も正常範囲内(CEA:2.5、CA15-3:11)に低下しているので、中止しても良いと思うのですが、どうしますか?」
乳がんでは早期発見に有用な腫瘍マーカーはなく、術後の経過観察における再発
モニタリングとして利用されています。なかでもCEAとCA15-3の組合せが多く測定
されています。基準値はCEA(5.0以下)CA15-3(25以下)
私 「副作用もほとんどなく辛くないので、もう少し続けてみたいと思いますが、続けることのリスクは何がありますか?」
主治医 「3週間ごとに通院しなければならないこと、お金がかかること、心臓に少なからず負担があることですね。」
私 「通院は負担に感じていませんし、治療費用も月4万で支払い続けることができる金額
です。今のところ心臓への負担もないようですので、もう少し続けさせてください。」
主治医 「副作用さえなければ、いつまでも続けても良いのですが、いつまで続ければよいのか?というエビデンスがないので、やめ時が難しいんですよね。幸い、今の薬が効いているので、いったん中止して、何か症状なり検査結果が悪くなってから、また同じ分子標的薬を投与することもできますよ。」
私 「中止したら、がん細胞が増殖するような気がして・・・。今まで最長でどのくらい続けた
人がいますか?」
主治医 「2年続けた人がいます。」
というわけで、心臓への負担状況を観察しながら、CTで骨の状態も見ながら続けることにしました。
③ 放射線照射(平日週5日で24回)
ステージ4なので、手術・放射線をしてもしなくても5年生存率には変わりがないのですが、
後悔しないようやるべきことだけはしたいと思いました。
放射線照射のために8/5〜9/9まで平日だけ毎日通いました。
毎朝仕事前に通院していましたが、夏の猛暑中、途中で疲れ、夜はよく寝るようにしていました。
放射線照射で免疫力が低下するのではなく、毎日通院という過酷さで低下するのではないかと思います。
今日も1日前向きに!!