一寸先はヤミがいい

〜薬剤師ガンサバイバー 今日も前向きに〜

10 東京というところ(1)

 

 

 

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東京オリンピック

前回のブログで、うつ病の話をしましたが、なぜこんなに生きづらい世の中になってしまったのでしょうか?

 

私は小学5年生の時に東京オリンピックを経験しました。

東京のど真ん中で生まれ、東京育ちの私は小学校でオリンピック音頭を踊りました。

国立競技場にも行かせてもらいました。

 

その当時(昭和39年)の東京は右肩上がりの急成長中でしたので、誰もが今まで見たこともないような国々の人に会える、と期待に胸膨らませたことでした。

アベベが裸足でマラソンに優勝したことは大きな衝撃でした。

 

www.ssf.or.jp

 

都電の上に高速道路ができて、街は一気に変わりました。

 

その頃の小学生の遊びは、鬼ごっこや石・缶けり、縄跳びゴム跳び、メンコやベーごま(アメリカのこまの意味?)。

東京にはすでに原っぱがあまりなかったので、わくわくするのは、空き家の中の探検くらいで、草野球もできなければ、思いっきり走る回る場所もありませんでした。

 

まだ小さな商店がたくさんあり、お店の人との会話が生活の一部になっていて、どこの店主も私たち子どもを自分の子どものように可愛がってくれました。

子供がおつかいの手伝いをしていると、必ず商品をひとつ多めに入れてくれ、

 

私 「わるいから、いいです。」

店主 「子供が遠慮なんかしちゃいけないよ。子どもは子どもらしく無邪気にね!」

 

と優しいまなざしで子供を育ててくれました。

 

その頃は大人が生き生きとしていた印象があります。

もちろん生きづらさを感じていた人がいなかったとは思いませんが、高度成長期でみんなが同じ方向を目指していたように思います。

労働条件は悪く、朝早くから夜遅くまで、みんなが良く働いていましたが、誰も文句を言う人はなく、キラキラ輝いていたように思います。

子どもたちに幸せな未来を作るために。

 

旅行に行くなんて贅沢な!という共通意識があり、子どもたちも毎日忙しい両親に連れて行ってもらえるなんて思ってもいませんでした。

小学校の先生が子どもたちのために毎年スキーに連れて行ってくださったこと、近所の方の従業員の慰労旅行に連れて行ってもらったこと、いろんな家庭で食事をご馳走になった事(みんな街の子どもたちは自分の子どもと同じという考え)、今懐かしく思い出されます。

子どものころから世の中にはいろいろな家庭があり、いろいろな考え方があるということを身をもって経験できました。

 

そうそう、家庭の主婦は例外なく白い割烹着を着ていて、割烹着を着たまま、買い物かごを手に下げていました。

 

twicolle-plus.com

 

今でいうエコバックです。八百屋さんも魚屋さんも天井からゴムでつりさげたかごの中にお金が入っていて、それを上から伸ばしてお金の出し入れをしていました。

豆腐屋さんには必ず小さなボールかお鍋を持って行き、店主さんが腕まくりをした手を冷たい水の中に入れて手のひらで豆腐を切って1丁入れると、豆腐が乾燥しないように白い紙を上に乗せてくれました。

魚屋さんは薄い竹の皮か木製の薄い紙のようなものをくるっと回して袋状になるようにして魚を入れ、新聞紙で包んで渡してくれました。

肉屋さんはこの紙のようなものに肉を平に入れて、両側から包み、紙でできた紐で結んで肉の包みを下で回転させて結んでくれました。

 

私にとっておつかいはとても興味をそそることでした。

そこで交わす店主とのやり取りも楽しい時間でした。

どこの店主もそれぞれの家庭の人数や顔や特徴を知っていました。

 

ところで、 この時代の平均寿命はいくつだったか知っていますか?

男性:68歳(2020年の平均寿命は81歳)

女性:73歳(2020年の平均寿命は87歳)なのです。

この頃の高齢者はあまり外出はしませんでした。

今では、信じられないことですようね。

ですから若者が多く、街にも活気があった気がします。

 

人工の街 東京

東京オリンピック以降、社会が成長すると共に、小さなお店はスーパーにとって代わるようになりました。

可愛がってくれた店主たちは時代の流れとともに自分のビルの最上階に住むようになり、顔をあわせることもなくなりました。

人間同志の血の通った社会(自然)というものとは程遠い、人工の街の始まりです。

その後東京はどんどん変わっていき、もはや私の生まれた街は全く違った街になってしまいました。

 

移り変わる東京を見ながら、私はどう感じていたか?

みるみるうちに知らない誰かが街を作り変えていき、自分は取り残されていく感じがしました。

以前から東京にいたものたちが、ついて行けなくなったのです。服装もどんどん変わり、気が付けば、私たちのほうが、野暮ったい服を着ていました。

 

現在IT化が進み、私たち高齢者がついていけない状態と同じだったかもしれません。

 

私は自分の街が誰かに奪われてしまった感じがしています。

 

私たちが子どものころは、大人がモデルで、そこには共通のモラル(伝統や慣習)がありました。

大人たちは真剣に子どもたちにモラル(小学校に道徳の時間がありました)を教えてくれました。

街にはおせっかいな人がたくさんいて、みんなで私たちを育ててくれました。

 

この40年くらいの短い時間の急激な変化で、私たちは共通のモラルを失い、多様性だけを身につけてしまったのではないでしょうか。

ある時、通勤電車の中で若い女性がお化粧をしていたり、朝食を食べている光景を目の当たりにして「なんでもあり!!!という社会になってしまったのか・・・」と愕然とした事を思い出します。

 

この多様性とは、ある一定のモラルの上の多様性でなければならなかったはずなのに。

 

なぜ生きづらいのか?

人間には変化に順応しようとする能力(大小にかかわらず)が備わっています。

順応しようとする間には、悩んだり、苦しむのですが、その苦しみを分かち合える友達や、相談できる信頼できる人、心配してくれるおせっかいな人がいなかったりでコミュニケーションの機会を失い、自分をわかってもらうすべを失い、孤立していき、生きづらくなってしまうのではないでしょうか。

 

p-dress.jp

 

東京は、他人のことを考える余裕のない人々であふれ、とても生きづらいところになってしまいました。

東京は自然を排除し、どんどん人工的になっていきます。

養老猛司さんが言うように、子どもは自然の象徴です。

 

www.ideesmontessori.com

 

人工の街では少子化は当然の結果です。

 

人間にとって、自然の排除は人間性の喪失であり、精神を病むのは自然なのかもしれません。

 

一寸先はやみだけど、光を探して、過度の期待をせず、歩き続けましょう。

どうかコロナ鬱にならないように!!

  

では今日も1日前向きに行きましょう!!