33 真実を正しく見よう(中道)
前回お話したように、「中道」と「中庸」は全く違うことです。
中庸とは?
以前にコモンセンスの話をしましたが、英語のコモンセンスを日本では「常識」と訳されました。
常識は時代によって変わるものです。
なぜなら、生活に密着した考え方、生活のためにどうしたらよいのかを常に問い、知恵を働かせることだからです。
「中庸」もほとんど同じだと考えます。「論語」の中の儒教の言葉なので、もう少し社会生活に密着した、道徳的なもので、「仁・義・礼・智・信」を持って、人間関係を維持していこうという考え方です。
仁・・・・人を思いやる心
義・・・・正義を貫く心
礼・・・・礼を尽くす心
智・・・・知恵を磨く心
信・・・・人を信じる心
これらを常に自分で問い続けること、深く考えることを重要視しているように感じます。
そのプロセスが一番大事なことだといっているようです。
それは、体操の平均台のようなもので、右に、左に行きすぎることなく、真ん中を歩んで行こう(バランス感覚)とする考え方ではないかと、私は考えています。
ところが、仏教の言葉に「中道」があります。
「中庸」と「中道」は似ているようで、全く違うものです。
「中道」とは?
一言でいえば、悟りへと至る道のことです。つまり、道徳的、モラル的ではないのです。
ブッダは苦しみをごまかす快楽と自分自身を苦しめるヒンドゥー教的な苦行(自分を苦しめること)は悟りへ至らないと知ったのです。
ただ、ただ、あるがままに見る(正見)、この世の因果関係を正しく見る、または見続けることで、苦しみを滅する、ということです。
ですから、そもそもそこには右・左や上・下というような二項対立の概念がありません。バランス感覚がないのです。
「中道」には四諦といって、苦しみの4つの真理(苦集滅道:くしゅうめつどう)があります。
仏教のテーマは苦しみを滅することです。
苦諦(くたい)・・・苦しみがあるということ(結果)
集諦(じったい)・・・苦しみには原因があること(原因)
滅諦(めったい)・・・苦しみの解決法があるということ(結果)
道諦(どうたい)・・・そのための道があるということ(原因)
「中道」とは正見し、知恵を獲得し、苦しみを滅する方法であるといえるのではないでしょうか?
中道には生産性はありませんが、前回のSPOM(持続可能な心の安定)を獲得することができます!!
こんなに合理的な考え方を、ブッダは2500年前に見つけたとは!ブッダは本当にすごい人ですね。
現代に一番必要な考え方かもしれません。
では、今日も1日前向き