一寸先はヤミがいい

〜薬剤師ガンサバイバー 今日も前向きに〜

40 東京というところ(12)

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東京の大規模都市計画も

チャンスは3回あった

 

  • 明治17年(1884年) 東京地区改正

薩長土肥による明治維新(1868年)に江戸から東京に改称され、東京府が誕生しました。

元号が江戸から明治になったのもこの年です。

京都と東京を往復していた天皇が明治3年(1870)3月の京都行きを延期し、太政官布告(同年12月22日)により、京都から東京に遷都されたと言われています。

 

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rekishizuki.com

 

江戸(東京)がようやく政治的中枢となるスタート地点に立ったのでした。

当時の東京府は今の23区とほぼ同じ範囲でした。

 

この明治の構想(都市改正)は、主に路面電車を開通させるための道路拡張(費用は電車会社にも負担させた)、上水道の整備、現在の日本橋もこの事業で掛け替えられた、木造漆喰塗の洋風建築が建てられました

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建築史家・建築家の藤森 照信氏によると、明治期の東京には、3つの構想グループがあったようです。

 

www.token.or.jp

otokonokakurega.com

 

 

商都を主張する実業家らによるグループ

大きなカギは、交易拠点となる港を東京に作ることでした。

すでに存在した国際港湾・横浜の機能を、東京に持って来る、いわゆる「東京築港」です。

アジアの交易で東京港がハブの役割を担おうと考えました。

澁沢栄一や益田孝といった当時の新興実業家たちが、日本は貿易立国を目指すべきであると主張、実業家が政策実現への牽引役になりました。

 

なぜ東京築港が実現しなかったのかは、横浜在住の外国人が納得しなかったことが大きな要因の一つです。

横浜は治外法権下で、その恩恵を受けている外国人達にとって港湾利権が東京に移ることは死活問題です。

彼らは政府に圧力をかけました。

結局、東京港の整備は昭和期の太平洋戦争前まで待たなければなりませんでした。

明治期は港ができないことで、兜町ビジネスセンター街構想が消滅しました。

ただその名残が、東京証券取引所として今も兜町に存在しています。

 

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澁沢たちが推進しようとした隅田川河口の東京築港計画地が、今はタワーマンション(ウォータフロント)になっていますね。

 

ヨーロッパに負けない壮大な首都をつくろうとする

「帝都」を主張するグループ

「官庁集中計画」という巨大な官庁街整備構想の名残は今も、法務省の赤煉瓦庁舎として残っています。

現在の霞が関官庁街と日比谷公園も官庁集中計画の名残です。

 

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もっと実用的に鉄道や道路、上下水道の「
インフラ整備」を優先するグループ

 

近代都市以前からあるもので近代化に役に立たないものを改造するのが、近代都市構築の大前提だったわけです。

ヨーロッパでは、まず城壁を除くことでした。

その後、ごみごみした街中に大きな道路を整備する。

それから工場や市場など物流などの用地を確保し、広場や緑地も整備した。

そのうえで、きちんとした住宅をつくったわけです。

 

明治5年(1872)2月、横浜~品川間の線路敷設が完了。

そして、明治17(1884)年に、皇居をつなぐ中央停車場(東京駅)の建設計画が浮上したが、訓令発布は明治23年(1890)、着工は明治41年

6年後の大正3年12月に、総坪数3184坪、正面長334.5mの巨大な駅舎が完成。開業直前に、「中央停車場」から「東京駅」と名称が改められました。

このように開業までには約30年の歳月がかかりました。

 

style.nikkei.com

 

明治17年(1884)に提出された「東京市区改正」の意見書は、明治21年(1888)にようやく成立しましたが、軍備増強が急務であることを理由に東京改造費は大幅に削減されたようです。

 

藤森氏が言うには、当時の都市計画、3つの計画・構想に共通しているのは、それぞれの勢力が夢を見て全体計画を出すわけです。

実際それは動き始めるけれど、途中で計画が縮小しながら進むわけです。

それぞれがなんとか実現していくわけです。

日本の都市計画は少し変わっているように思います。

代表的なのが山手線です。

それぞれ違う目的で出来た路線がいつの間にか、一つにつながって使われています。

例えば、上野~新橋間は東北と東海道の路線をつなぐものです。

新宿~品川間の路線は、八王子から絹を運ぶための路線でした。

それぞれ違う目的の路線がつながって丸くなっています。

部分的なものがそれぞれ実現して全体が出来るというのは、いかにも日本的だと言えます。

パリのように大計画を立て実行するということとは違います。

これは日本の都市計画の特徴であり、もしかしたら宿命のようなものかもしれません。

 

日本の都市計画は、このあと、大災害や戦争などで復旧・復興のために大胆な計画も立てるが、全体的にはうまくいかない。

ある程度は実現するというのが、日本の特徴、宿命、運命なのかなと思っています。

 

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現代のような高層ビルの間を駆け巡る高速道路の風景は、子どものころ見ていた手塚治虫先生の「鉄腕アトム」に描いてある風景そのものです。

1952年4月~1968年にかけて月刊雑誌「少年」に連載されました。

今から68年前です。

 

tezukaosamu.net

 

明治の東京大改造計画の構想から始まった近代日本ですが、その後どのようにして現代の街並みになっていったのか・・・

次回のお楽しみです。

  

では今日も1日前向きに!!