41 東京というところ(13)
前回は第1のチャンス、明治時代の東京の大規模都市計画について話しましたが、
第2、第3のチャンスについて話そうと思います。
② 大正12年(1923年) 東京大震災(関東大震災)
東京大震災は、父が12歳の時に起こりました。
我が家一家は、上野の山に避難したことを聞いています。
この関東大震災から、未曽有の大災害を忘れないため、毎年9月1日は『防災の日』と定められました。
阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)では圧死、東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)では溺死が多かったが、この震災において焼死が多かったのは、日本海沿岸を北上する台風に吹き込む強風が関東地方に吹き込み、木造住宅が密集していた当時の東京市(東京15区)などで火災が広範囲に発生したためだったそうです。
東京の被害は、隅田川より東側が最も大きく揺れ、この地域の家屋倒壊率は20~30%近くに達している。
特に隅田川から柳島一帯、本所の横綱から被服廠跡地※、深川の大部分が最も被害が大きかった。
東京市内の建造物の被害としては、凌雲閣(浅草十二階)が大破、建設中だった丸の内の内外ビルディングが崩壊し作業員約300名が圧死。
また大蔵省・文部省・内務省・外務省・警視庁など官公庁の建物や、東京帝大、帝国劇場、日本橋三越本店などの教育・文化・商業施設の多くを焼失しました。
後藤新平東京市長は、「東京は国家政治の中心。その復興は単に一都市の形態回復の問題ではなく、日本の発展、国民生活の根本問題だ。理想的な都市を建設する機会だ」と提案した「帝都復興計画」はその後事業費が大幅に削減されてしまいましたが、「復興局」のもと、復興事業がすすめられました。
東京では、国によって52本の幹線道路が整備されましたが、これらの道路は現在でもほぼそのまま都内の主要な通りとなっています。
現在の港区の新橋交差点から台東区の大関横丁交差点まで続く昭和通りは、昭和3年(1928年)に完成。
現在の新宿区の新宿大ガード東交差点から中央区の浅草橋交差点まで続く靖国通りは、この時に幅が広げられました。
耐火という観点から、鉄製の橋が造られ、両国橋、厩橋、吾妻橋は国によって造られ、相生橋、永代橋、清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋は東京市によって造られました。ほかにも、東京全体で103の橋が整備されています。
東京の三大公園と呼ばれる、隅田公園、浜町公園、錦糸公園も、当時「震災復興公園」として造られたものです。
震災復興期に造られた耐火建築は、「太平洋戦争」での空襲による延焼を免れ、現存しているものも数多くあります。
③ 昭和20年(1945年) 太平洋戦争終戦
第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)は昭和16年(1941)12月8日の日本軍に寄る真珠湾攻撃で開戦し、昭和20年(1945)8月15日、日本国民へ玉音放送(終戦の詔)で終戦となりました。
東京では終戦の年の3月10日の「東京大空襲」で、東京一帯が焼け野原になりました。
関東大震災から22年、途方もない苦労と費用をかけて復興した東京は、再びその大部分を失いました。
昭和21年(1946)に「特別都市計画法」が交付され、新たな首都・東京をつくるための都市計画が動き始めました。これは戦前から表面化していた数々の都市問題を解決する機会としても捉えられていました。
東京の戦災復興計画は、広幅員街路と広場、緑地帯、公園、特別地区、緑地地域を決定して環状線内側を区画整理する雄大なプランで、当時の全国各地の復興計画と同様に都市施設をゆったり採った理想主義的なものでした。
計画の基本方針は明確でありましたが、東京の戦災復興事業は全国の他都市と比べて事業の着手が遅れました。
1948年(昭和23年)にはすべての罹災地に仮設住居が立ち並び、戦災復興ではなく、既成市街地の都市改造のようになってしまいました。
戦災復興事業の遅れで駅前では闇市が並び、人口も急増。
駅前周辺(それも一部)を除き区画整理は中止、広幅員街路や公園緑地は大部分が計画廃止になりました。
今日、桜並木が花見の名所となっている文京区の環状3号線(環3通り桜並木)やJR高円寺駅前広場、建物疎開跡地の渋谷宮下公園などは、プランが多少なりともの形で実現した数少ない事例でした。
その後GHQからの指示により、都は大量の瓦礫処理を費用をかけずに実施するという難題を抱え込みました。
区画整理を実施しないことになった都心部では大量の瓦礫処理に苦慮し、苦肉の策として都心に点在する濠・小河川を瓦礫で埋め立て、できた土地を民間に売却する方法がとられました。
こうして江戸以来の東京の水空間が大量に失われました。
外堀通のように公有地として残された箇所は極めて少なく、上智大学グランドである四谷の真田濠のようにオープンスペース的な使用方法もほかにはなく、大部分の埋め立て箇所には建物が建っています。
またGHQから美観上の問題から東京の露店を全部路上から消すように命令が下ります。
路上に広がる闇市屋台の排除を目的に、しぶちかや上野公園下の石垣を利用することになります。
駅前の闇市の処理は1946年以降何度も行われ、暫定使用が黙認されていきます。
そしてこのような駅前利用形態、店舗兼居住空間は後年の都市改造、都市再開発に際して障害となりました。
復興計画のPR映画「20年後の東京」です。
東京のその後についてはまたの機会にしたいと思います。
昭和60年代の東京の映像です。
では今日も1日前向きに!!