一寸先はヤミがいい

〜薬剤師ガンサバイバー 今日も前向きに〜

39 東京というところ(11)

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東京はどのようにして、世界にも例のないこんな大都市になってしまったのでしょう?

東京都民は推定1400万人、神奈川・埼玉・千葉を含めたいわゆる「東京圏」の人口は約3800万人、カナダの総人口を上回っています。

水はけの悪い不毛の地だった江戸が徳川家康によって日本の中心地になり、明治・大正・昭和と大都市になっていった経緯を探ってみたいと思います。

 

徳川家康が築いた江戸

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今から約400年前、1590年に何もなかった土地を都市にすべく、豊臣秀吉から命じられた(押し付けられた)徳川家康は、都市計画を図り、比較的地盤のしっかりした土地に家臣たちの居住地を作りました。

 

江戸はもともと江戸城のある湿地帯で、住む場所の少ない小さな村でした。

江戸城の周りには入り江があり、東京湾がすぐ近くにあったため、水浸し状態でした。

 

まず飲み水を確保するために、水源でも特に質の良い、井の頭池から水路を作り、江戸城に水が流れるようにしたのが、初めて作られた水道だそうです。

 

飲み水が確保されると、江戸を武士中心の政治都市にすることを目的に、武士の生活の面倒を見てくれる商人や職人(町人)を江戸に呼び寄せることにしました。

が、住む人の少ない江戸にはまだ来る人もなかったため、家康は宅地の整備を始めます。

江戸城の北側にあった神田山と呼ばれる丘陵地を切り崩して入り江を埋め立て、そこに地方から医師などの生活に欠かせない人々を呼び寄せました。

現在の丸ノ内・有楽町エリアの始まりです。

 

街のイメージ作りを図ったことで、江戸には徐々に人が集まるようになります。

そこには「長屋」ができ、公衆浴場(銭湯)などが生まれ、連帯意識が根付くと、その住民は「江戸っ子」と呼ばれるようになり、都市として成立していきます。

 

こうして整備された江戸の町が大きく発展する原動力となったのは、各藩の藩主を1年おきに江戸に出任させる「参勤交代」です。

 

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大名たちは家臣を引き連れて領地と江戸とを行き来する一方で、正室と世継ぎを事実上の人質として江戸に常住させなければならなかったのです。

各藩との交流から発生する莫大な需要を満たすために商業が栄えます。

正確なデータはありませんが、18世紀に江戸の人口は100万人を突破したと考えられており、江戸に武家人口が増加すると、世界でも有数な大都市となりました。

 

家康は、1601年(慶長6年)「天下普請(てんかぶしん)」を発令します。

いわゆるインフラ整備を始めました。

入江は短期間で完全に埋め立てられ、現在の日比谷、新橋、浜松町にあたります。

水路を東に延長して日本橋川が開かれ、のちに江戸と全国各地を結ぶ五街道東海道日光街道甲州街道奥州街道中山道)の起点となる「日本橋が架けられたのでした。

首都としての江戸は流通の中心になっていきます。

 

徳川家康は、1635年、75歳でこの世を去ったのですが、1605年、将軍職を2代秀忠に譲り、駿府城に戻ってきました。

晩年も「大御所」として天下の実権を掌握し、駿府は江戸をしのぐ政治・経済・文化の中心としてその黄金時代を迎えたのでした。

 

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東京の都市計画

明治維新から150年、東京の大規模都市計画のチャンスは、3回あったと言われています。

 

  • 明治17年の「東京地区改正」は日本で最初の都市計画だったが、軍備増強が急務であるとのことで費用を削られたりして、大規模な実績には至らなかった。
  • 大正12年の関東大震災後の震災復興事業で「帝国復興計画」を提出したが、またもや

予算を削減された。

  • 太平洋戦争直後から復興が急がれた。

東京の「復興計画基本方針」では道路の幅員拡張・駅前広場・市街地面積の1割以上の緑地化・市街地外周の緑地帯・環状道路(通称・環1から環8)を基本とした都市構造にするなど理想的で高水準な内容だった。

が、GHQの指導の下であったが、本来の東京の戦災復興事業は大幅に縮小された。

 

このことについては、次回にお話することにしましょう。

 

では、今日も1日前向きに!!