93 差別と平等について(5)
差別と平等
仏教では、この「差別と平等」についてどのように考えているのでしょうか?
人間とは、人の間と書きます。
人と人の間に生きること、決して一人ではないことを意味しています。
そこには人間関係が生まれ、社会ができています。
環境・地位・財産など、人はみな違う生き方をしています。
しかし、人は生き方の違いはあれ、みな本来は平等なのです。
この平等には二つの意味があります。
一つは、生きとし生きるものすべて成仏の可能性を持ち、尊い命を持っていることにおいて平等なのです。
もう一つはすべての人間はその存在の根底に無明の闇を持っていることにおいて平等なのです。
無明の闇とは、煩悩にとらわれ悟りえない心の状態を闇にたとえていう語のことです。
無明の闇
一人一人の生き方は違っていても、人間関係のあり方は、あくまでも横(水平)の関係で見るべきもので、それを上下関係で見たときに「差別」となります。
現代社会にはいろいろな差別が存在しています。
民族差別・女性差別・身障者差別など無数の差別の中でわたしたちは生きています。
人間関係を上下関係ではなく水平関係で見る場所、それが極楽浄土なのです。
極楽浄土には一切差別はありません。
水平な関係・水平な福祉
子ども・高齢者・障害者は働きたくても働けない人達です。
「働かざる者食うべからず」
は、働かない者を下に見た上下関係で見ています。
植松青年の
「やまゆり園の障害者は、家庭のお荷物で、いなくなった方がいい存在」
という考え方は、障害者を下に見た上下関係で見ているもので、植松青年がもし反対の立場になったとしたら、同じ上下関係で見ることができるのでしょうか?
立場が違うだけの話で、立場なんていつ反転するかわかりませんよね。
家族のお荷物と言いきっていますが、家族、特に母親に取って子どもがどんな姿になっても決してお荷物とは思いません。
自分が生きられるのは子供がいてくれるおかげだと思うものです。
日本の風土や日本人の歴史を考えると、身障者は家族のお荷物で、いなくなった方がいい存在、とドライに言い切ることができない民族だと思うのです。
自然を重んじ、自然を愛し、自然とともに共存してきた人たちの考えが、無意識に日本人の考え方の根底に根付いているのではないでしょうか?
人間もまた自然と同じ、人間であるという確固としたものがあるわけではなく、風に吹かれる柳のように明日はどちらに進むかわからないようなあいまいさがあると思うのです。
唯一言えることは、「今ここに居る」ということだけのような気がするのです。
だから欧米人に、日本人はウェットで、はっきりしないといわれるのではないでしょうか?
福祉も水平な福祉を目指すのであれば、「今ここに居る」を大切にし、今の人間関係を日々続けていくことではないかと思うのです。
仏さんは、人はもともと悪をしてしまうあさはかさ、もろさを持っているのを重々承知で、でも、そういうもろさをひっくるめて人を抱きしめているのですよ、というものです。
これは自分で救われるように努力する「自力本願」に対して、何もしなくても救われるに決まっている「他力本願」をといたものです。
でも、本当にそうでしょうか?
本来は、犯した罪を繰り返し反省し、罪を背負って、すみません、すみませんといいながら死んでいかなければならないと思います。
当人は救われるなんて毛頭思っていないのが自然です。
何もしなくても救われる、という中には、当人は救われるなんて毛頭思っていない前提で、
でも仏さんはそんなあなたを受け入れますよ、というのが他力本願だと思うのです。
植松青年は自分のしたことを反省していない、と最首氏は言っていますが、日本人は加害意識を持たない、持てないと言われているそうです。
これでは被害者はたまったもんではありません。どんな理由があるにせよ、犯した罪を何度も反省して、救われるなんて毛頭思っていない人にしか、この他力本願は通用しないのではないでしょうか?
では今日も1日前向きに!!