一寸先はヤミがいい

〜薬剤師ガンサバイバー 今日も前向きに〜

79 エナジーム(2)

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言葉のおもしろさ

先日、言語学者 川添愛 著「言語学バーリ・トゥード」を読みました。

 

そもそも言語学者とは?

一般の人は誤解しているというのである。

言語学者なんだから、正しい言葉の使い方を知っているだろう。

言語学者なんだから、バイリンガルどころか世界中の言語に長けているんだろう。

 

著者は言語学者の中でも研究対象が「日本語」で、日本語が専門です!と言っておけば多言語には堪能でないことはわかってもらえても、言葉のセンスがあり、キャッチコピーがうまいだろう(植物学者はみんなフラワーアレンジメントのセンスがあると言われるのと同じで、ナンセンス)、とか正しい日本語の使い方を研究していると思われがちだというのです。

 

言語学の研究対象は、正しい言語使用だけではなく、著者が取り組んできたのは、「理論言語学」中でも日本語の文法および意味理解の研究だそうで、日本語はこうでなければならない!と押し付けられる規範ではなく、私たちが普段言葉を使う際に頭の中で動かしている仕組みのことだというのです。

言葉を「自然現象」としてみるので、そこには「正しい」も「間違っている」もない、というのです。

 

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このバーリ・トゥードとは、もともとはポルトガル語の「何でもあり」という意味ですが、ルールや反則を最小限にした総合格闘技のことだそうです。

 

言葉を「自然現象」と見るならば、了解を意味する「り」、パーリーピーポーParty People)の略「パリピ」、タピオカドリンクを飲む「タピる」、「とりあえずまあ」の略語「とりま」のように言葉を短縮したり、「……って感じ」,「……とか」や「……じゃない?」のような語尾上げ、「……っす」「……っすか?」という新語を敬語として使うなどの若者言葉の誕生は、たいていシステマチックに起こっていて、言葉というシステムに対して貴重な示唆を与えてくれるそうです。

 

この本の中で、とても興味深かったことは、言葉の意味と意図は違う場合があるということです。

 

例えば、「熱湯コマーシャル」でおなじみの、ダチョウ倶楽部上島竜兵氏の

「絶対に押すなよ!」は、「押せ!」という意図であることはみんなが承知していることですね。

 

ここでは、「絶対に押すなよ!」と言う言葉の「意味」とは裏腹に、その「意図」「押せ!」

であるように、正反対になることもあるというのです。このような「意味」と「意図」のず

は日常的にあることで、わたしたちをしばしば悩ませるものです。

 

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有名な京都人の話で、客人に対して、「ぶぶ漬でもどうどす?」は「早くお帰りください。」を意図しているという話は、本当かどうかは別にしても、この「意味」と「意図」のずれを端的に表しているのではないでしょうか?

 

人間というのは、本当に素晴らしいと思うのです。

人間は、この「意味」と「意図」のずれをどんなシチュエーションでも理解できる脳を持っています。

私たちの脳内では、意図理解のための暗黙の処理が働いているのです。

例えば、これをAIでできるか?と言われれば、不可能ではないにしても、どれだけの膨大な情報を使用しなくてはならないでしょうか。

 

「絶対に押すなよ!」と竜兵氏が発したとき、AIが竜兵氏を熱湯風呂に押して落とすことはできても、それを竜兵氏ではなくほかの人がネタをパクッテしたとき、もしくは、熱湯風呂でなくクリームパイを目の前に置いた時、AIに適切に判断させるには、より複雑な知識と判断がAIに必要になるでしょう。

AIがどこまでできるのか?などの話題は著者の『自動人形の城』を読むと面白いかもしれません。

 

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例えば、「おじいさんの時計」の歌詞の中に、「今はもう動かないおじいさんの時計」があるが、この歌詞を聞いて、大多数の人は「動かないのはおじい・・・いやいや、やっぱり時計の方だよね、うん」と良識的な解釈ができるのも、歌のテーマや雰囲気を考慮して、作者の意図を推測するからです。

AIにとっての問題は、「意図を特定するための手がかりが、言葉そのものの意味の中には入っていない」ということです。

つまり、AIにいくら言葉そのものの意味を教えてもそれだけでは意図をきちんと推測するためには不十分で、あいまいな文から相手の意図を推測するときは、常識だったり、その場面や相手の文化に関する知識だったり、それまでの文脈だったりするのです。

そういった広い意味での「取り決め」を話し手と聞き手の間で共有していなければ、意図の伝達は成り立たないということなのです。

 

著者の、このような深い言葉に対する考察を読むと、私たちはなんと贅沢な毎日を過ごしているのだろうと思います。

脳の一部が損傷したり、認知症になったりすると、このような脳の中で起こっている暗黙の処理がどれだけ緻密なことなのかが、わかります。

人間の脳がAIにとってかわることは不可能でしょうし、可能にする必要もないのではないでしょうか?

 

では今日も1日前向きに!!