26 美しいと感じる心
じっくり観ること、じっくり聴くこと
コロナ禍で、美術館や映画館に行くこともなくなり、もっぱら家で読書する、音楽を聴く、TVで美しい風景を鑑賞することしかできなくなりました。
結婚するときに相手に何を求めるのか?と考えたときに、私は、「同じ価値観を持っていること」を条件にしました。
中でも自分が、「美しいと感じること」が相手もそう感じてくれる、が一番大事だと思っていました。
例えば、映画を二人で見に行ったとしましょう。
あとでお互いに映画の感想を話し合う時に、あのシーンは感動した!とか、あの行動は理解できない!とか、相手が何に感動し、何を美しいと感じ、何に疑問を持つのか?が、私にとっては一番の関心事でした。
品(ひん)がある、とか品(ひん)がない、とか、昔はこの「品(ひん)」という言葉をよく使いました。
特に女性は、品のない言葉や、行動をすると、「お里(さと)が知れるわよ!」と言われました。
いわゆる、育った環境がわかるということです。
このように、美しいと感じるかどうか、品が良いか悪いか、は、育った環境や親の教育によって変わるということなのではないでしょうか?
美しいと感じるとは、どういうことなのでしょう?
私たちの眼は見るため、耳は聞くためにあるもので、見たり聞いたりすることは容易なことで、努力しなくても自然にできることです。
そしてその目的を果たすともう閉ざしてしまうものです。
絵を鑑賞したり音楽を聴いたりするとき、私たちはじっくり観たり、じっくり聴いたりしているでしょうか?
例えば、有名な絵画を観たとしましょう。
これは誰の絵だったかしら?とか題名は何だったかしら?と、アタマで考えるでしょう。
作者の名前や、絵画の題名がわかった瞬間、私たちはもうその絵画から離れていってしまうことがないでしょうか?
だとすると、これは単に好奇心なのでしょう。
展覧会や音楽会にただ好奇心のために行くのだとしたら、真に鑑賞したことにはならないでしょう。
すぐれた絵画や音楽は、まず観たり、聴いたりしたとき、アタマではなく、心に響くもの、つまり沈黙せずにはいられないものではないでしょうか。
美しいと感じるものは、評論家が言うようには、言葉に表せないものだと思うのです。
芸術家と言われる人は、モノを黙って見続ける力、微妙な音やその組み合わせを聴き分ける力を持っているのです。
そしてその芸術家の感じたものを、筆を使い、音を使って、自分の感動を現しているのです。
そのためには、観る側、聴く側にもじっくりものを観る、じっくり音楽を聴く、といった努力が必要になってくると思うのです。
なるべくたくさんのすぐれた作品に早くから触れることが大切だと思います。
育った環境の中で、この「美しいと感じる心」が育まれるのではないでしょうか?
京都と東京の街並みの違い
ところで、前回コモン・センスの話をしましたが、東京の街並みを見ていると、東京のコモン・センスはどこに行ってしまったのか?と疑うばかりです。
大規模再開発で消えゆく昭和の街並み 渋谷の「ガラパゴス」桜丘町の記憶 - シブヤ経済新聞
京都の街並みを見て、私たちは昔からの京都のコモン・センスが変わらずに息づいている印象を受けます。
昔から京都に住んでいる方たちは、何か新しい建物や環境に対して、NO!!と言えるコモン・センスを持ち続けているように見えます。
私たちの様なもともとの住民に有無を言わさず、好き勝手に東京を新しく変えてしまいました。
それは昭和39年の東京オリンピックが始まりだったように思うのです。
東京を世界に負けないような大都市にするために、日本全国から人を集めて、もともとの住民の意見を聞かずに、どんどん新しい都市に変化させていったのです。
また、私たちもそのことに疑問を持たずにただ傍観していただけでした。
東京のコモン・センスはいつのまにか影を潜め、今となっては、もともとの東京人もどんどん少なくなってしまいました。
優れた建築物の保存運動も、資本主義社会の前にはむなしく力尽きてしまっています。
建物の一部は保存出来ていてもどれもその後ろには資本主義そのものの巨大なビルが建っています。(保存と言えど、商業主義、いわゆる、企業イメージを高めるために残してあることも多々あります・・・)
時代と共に都市が新しく変わること、多様性を持つことは良いことだと思います。
しかし、今の東京は、古いものはダメ!新しいものだけがいい!という偏った考え方に行きすぎていると思いませんか?
京都のように、古いものと新しいものの共存、融合という、コモン・センス、「中庸」、バランス感覚を取り戻し、時代に相応した社会を作っていきたいと思いませんか?
では、今日も1日前向きに!!