一寸先はヤミがいい

〜薬剤師ガンサバイバー 今日も前向きに〜

24 東京というところ(6)

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東京の食文化 

私は小さいころから魚料理が大嫌いでした。

結婚するまで、魚料理が嫌いなのは、私のわがままで、肉料理が好きだと思いこんでいました。

夫の両親は関西の人で、義母に教わったお料理は、今までとは全く違い、カルチャーショックを受けました。

初めて大阪に親戚ができて喜んで大阪の義祖父・祖母の家に伺ったときのことです。同居していた叔母の作るお料理がどれも皆おいしくて、びっくり!!

特に魚が新鮮でおいしいことに気が付きました。

 

私が魚嫌いだったのには訳があったのです。

東京の魚屋さんに並んでいる魚は焼いてあるか、煮てあるか、もし生で出ていたら、その魚の目は濁っていて、臭かったのです。

にぎりを食べに行くことがあっても、家で刺身を食べることは絶対にありませんでした。

魚は臭い→おいしくない→嫌いという構図が自然にできたのは、当然でした。

 

関西に行って、初めてこのことに気づき、魚のおいしさを知ったことで、今までの食生活の価値観ががらりと変わりました。

東京ではだしは煮干しと鰹節が定番でした。

味噌汁もから目で、これがおいしいみそ汁と思っていましたが、関西のだしはかつおと昆布で、味噌は甘めで、種類も多く、したがって料理の種類も断然多いことが分かりました。

その後、瀬戸内海の海辺に住んでいる親戚にも行き、益々魚が好きになりました。

魚は新鮮なのが一番おいしい!!という当たり前のことが、東京にいるとわからなかったのです。

関西はなんと食材の多いこと!今まで私は何を食べてきたのだろう?と東京での食生活の貧困さを知りました。

 

otokonokakurega.com

 

江戸の食文化

我が家では、お客様には、「にぎりずし」を出前でおもてなししていました。

私たち子どもはめったに食べさせてもらえないので、お客様が帰るころ、戸の裏側に潜んでいて、お帰りになるや否や、残ったにぎりずしをみんなで食べる、というのが定番でした。

たまたま、お客様が、忘れ物があって戻ってこられたときは慌てました。

いつも兄たちが口いっぱいほおばるので、私の取り分はほとんどなかったと記憶しています。

 

江戸前寿司とは、江戸の前、すなわち東京湾江戸湾)で獲れた魚をネタにした寿司のことをもともとは指していました。

江戸前寿司は美味しい!と言われますが、「当時は冷蔵庫もなく、その上交通手段も発達していませんでした。

 

「にぎりずし」は、もともと東南アジアで生まれ、日本では奈良時代には食べられていたと言われています。

当初は「なれずし」と呼ばれ、川魚を米と塩で混ぜた物を、数ヵ月から数年、重石を置いて熟成させた物で、魚のみを食べていたそうです。

 

江戸時代になると、酢が普及し、酢や塩で締めたり、煮たり、タレ煮つけこんだりなど、生魚に様々な加工を加え日持ちがする工夫をしていたのです。

箱につめた酢飯の上に魚介類を乗せて蓋をし、重石を置いて数時間後に食べる「早すし」が誕生。

その後、お客様の前で新鮮なネタを即席でにぎる「にぎりずし」が登場します。

せっかちな江戸っ子が短時間で空腹を満たすことができるよう、立売り屋台でシャリとネタを一緒に握り提供していました。

これが江戸前寿司の始まりです。

江戸の各町には1~2軒の寿司屋があったと言われています。

 

www.touken-world.jp

www.mizkan.co.jp

nihombashi-tokyo.com

 

 

そもそも江戸は不毛の湿地茅葺き屋根が点在する村だったといわれています。

 

江戸城は長禄元年(1457)に太田道灌が築城し、大永4年(1524)以降に北条氏下の遠山氏が改修したといわれています。

その後、天正18年(1590)に豊臣秀吉の命で江戸に入った徳川家康が使用したようです。

 

慶長8年(1603年),関ケ原の合戦(豊臣西軍対徳川東軍)に勝って天下人となった徳川家康が,この江戸城の本格的な改築と同時に,大規模な江戸の街づくりに着手したといわれています。

これまでの封建社会の中心をなす士・農・工・商の身分制度をより厳しく取り締まるようになりました。その中で最下層階級である町の商人と職人(町人と呼ぶ)が、少しずつ経済力を持ち、江戸の町の風俗・流行などの文化を開花させる時代となります。

 

www.abura-ya.com

 

江戸の食文化の発展のピークは2回あり、

貨幣経済の浸透とともに消費が拡大し、商人を中心に様々な文化が栄えた時期で、屋台・一膳飯屋・有名な高級料理屋が出現しました。

貨幣経済や消費文化が発展した時期で、現在のドライブインのような街道沿いの店や「三分亭」というどこでも3分、かつ同じ価格で食べられる今のファーストフードチェーン、ミシュランのような番付、グルメガイド、料理教室までできたそうです。

 

この時代背景として、参勤交代などで地方から多くの男性が集まり、江戸が極めて単身男性の割合が高い町だったことも大きな要因です。

 

外食産業の中でも「屋台」は独自の発展を遂げた要因には、

  • 発酵食品の「醬油」「みりん」「酢」の質が向上し、大量生産されるようになったこと。
  • 江戸近郊の武蔵野台地は水田が作りにくかったため、「蕎麦」「小麦」を栽培するようになり、五街道すべての入り口には穀物問屋ができ、中には水車で粉をひいてから出荷する商人も現れ、素材の流通の仕組みも整ってきたのです。

 

www.suntory.co.jp

 

では今日も1日前向きに!!