16 東京というところ(2)
東京というところ(1)では、前回の東京オリンピックのあとの東京の変貌について書きましたが、今回は東京オリンピック以前の東京のこと、私の知る限りを書いてみたいと思います。
昭和28年2月1日にテレビの放映が始まりました。
サラリーマンの平均月収が、20、822円(昭和27年)で、普及型の14インチ型テレビの値段は17万円もしたそうですから、高価な買い物だったと思います。
ちなみにNHKの受信料は年間200円でした。
我が家にいつTVが登場したのかは定かではありませんが、小さいころ、我が家のTVは
窓から道路に向いていて、道路では近所の人々がプロレス中継に熱くなっていました。
というわけで、わが家族もみんなと一緒に道路で観戦したというわけです。
その頃はプロレスラー、力道山(ジャイアント馬場の師匠に当たる人)の全盛期で、空手チョップで大きな外人プロレスラーをなぎ倒すので、みんな熱狂していました。
野球中継も同時に始まり、後楽園球場(今のドームの前身)の読売ジャイアンツの試合はみんな大好きでした。
また同時に大相撲中継も開始され、昭和36年に横綱となった大鵬は特に人気があり、横綱柏戸(かしわど)とともに「柏鵬(はくほう)時代」と言われる黄金時代を築きました。
のちに堺屋太一氏が発したといわれている言葉で、「巨人・大鵬・卵焼き」は、その時代の子どもたちが大好きなものを象徴していて、流行語にもなりました。
TVは高価なので、家に1台あれば御の字、大切に扱われていて、使用していない時は、我が家のTVも赤いビロード製の布カバー(織物もある)をしていました。
家によっては、観音開きの木製の箱の中に入れていたところもあったと記憶しています。
家族が多い家庭では、チャンネル権は家長である父親にあり、父親不在時は兄弟姉妹でチャンネルの奪い合い、私は末っ子ですので、いつも悔しい思いをしていました。
今のようにリモコンはなく、TVの右下についているチャンネルをひねるのですが、そのチャンネルをいつも兄が手で持っていて、絶対に離しませんでした。
「少年ケニヤ」、「少年ジェット」、アメリカの影響を受けて、「パパは何でも知っている」
「名犬リンチンチン」「ヒッチコック劇場」「名犬ラッシー」「ルート66」「ベンケーシー」「コンバット」
特に、「パパは何でも知っている」はアメリカの一般家庭の日常のドラマだったので、ドアを開けたらすぐ居間で、靴を履いたまま家の中に入ることや、椅子の生活やシステムキッチンをこのドラマで初めて知ったことを覚えています。
一種のあこがれは感じていたかもしれませんが、家の中のお掃除大変だろうな~とか朝食はオートミールだけ?お料理しないの?とか、今の私なら突っ込みどころ満載のドラマでした。とにかく、欧米人にはめったに会えない時代でしたので、カルチャーショックが大きかったのを覚えています。
現在の明仁上皇と美智子上皇后のご結婚が昭和34年4月でしたから、まだ白黒TVでしか見られませんでした。
カラーTVが発売されたのは、東京オリンピックの前年の昭和38年で、オリンピックに向けて、日米間の宇宙中継の実験放送がありました。
ちょうどこの昭和38年11月22日、アメリカのケネディー大統領の暗殺事件があり、日本人もTVでこの暗殺事件を見たことは、私にとって大きなショックでした。
1ドル360円の時代でしたから、海外旅行はほとんどの人ができませんでした。
では今日も1日前向きに!!